そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

アニメ映画「この世界の片隅に」を観て、戦争へのアプローチを考える

2017-01-13 | 戦争
今年一番の寒さで友人の牛舎ではマイナス26度にまでなった。昼もマイナス19度しかなかったが、100キロ先の釧路まで出かけ、昨年の日本映画のトップにキネマ旬報は評価した、「この世界の片隅に」を観に行ってきた。原作は漫画家こうの史代氏で、監督は片淵須直しである。最近は時代考証がなっていないドラマなどが目に付く中、言葉遣い以外にはそうした違和感がなかった。淡々とした戦時中に生きる庶民、特に女性の目線で時代を見ている。これだけ国が懸命に戦時下の国民を鼓舞しても、庶民感覚は変わらずある意味逞しくもある。配給が止まっても野の草や残り物や調理の工夫などで、むしろ楽しむようでもある。男女の想いなども淡く描いている。原作がしっかりしているのであろうか、時代描写に大きな違和感がなかった。

全身小説家井上光晴の『明日 一九四五年八月八日・長崎』は、原爆投下前日の庶民の日常を描いたものであった。淡々と戦時下の庶民の一日を描いてそれらが、翌日すべてが原爆によってすべてがなくなるという小説を思い起こした。この小説は映画化されたが,終わりは強烈であった。
戦争を庶民の日常との落差を、この二作品は描いている。戦争によって、絵を描く右手を失ったすずが終戦の事実を知り、「最後の一人まで戦うといったではないか。私には左手も両足もある!」と叫んでいた。私にいろんなことを教えてくれた、従兄弟の姉から、「竹やりで最後まで戦う」と覚悟していたという言葉を聞いていたことを思い出した。。
人々の日常とは、つまり生活をしていくということは、平和そのものなのである。国家がそれらに戦争として対峙する。生活を壊すである。生活だけではなく人々の感性まで奪い壊すのである。

この映画の観客層の幅の広さには些か驚いた。初老の人たちから若者までの男女が客席にいたのである。こうした戦争へのアプローチが若者を呼んだのであろう。声高に反戦を訴えるしか能のない自分自身を見直すことにもなる。
コメント (2)
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