

全身小説家井上光晴の『明日 一九四五年八月八日・長崎』は、原爆投下前日の庶民の日常を描いたものであった。淡々と戦時下の庶民の一日を描いてそれらが、翌日すべてが原爆によってすべてがなくなるという小説を思い起こした。この小説は映画化されたが,終わりは強烈であった。
戦争を庶民の日常との落差を、この二作品は描いている。戦争によって、絵を描く右手を失ったすずが終戦の事実を知り、「最後の一人まで戦うといったではないか。私には左手も両足もある!」と叫んでいた。私にいろんなことを教えてくれた、従兄弟の姉から、「竹やりで最後まで戦う」と覚悟していたという言葉を聞いていたことを思い出した。。
人々の日常とは、つまり生活をしていくということは、平和そのものなのである。国家がそれらに戦争として対峙する。生活を壊すである。生活だけではなく人々の感性まで奪い壊すのである。
この映画の観客層の幅の広さには些か驚いた。初老の人たちから若者までの男女が客席にいたのである。こうした戦争へのアプローチが若者を呼んだのであろう。声高に反戦を訴えるしか能のない自分自身を見直すことにもなる。