政府が薦める大型農業は、周辺産業がおこぼれを受けるため地域が一丸となって、攻める農業としてそれゆけドンドンといった感じである。酪農に限ってそのようなことは起きてはいない。
大型化することで、余りにも失うことが多いからである。頭数が増えれば目が行き届かなくなり、事故が増える。牛群は淘汰が早くなり弱年齢化する。設備投資が増えるため、回収が急がれ酪農の形態とは関係なく外部資本の言いなりになる。高泌乳が求められて、輸入穀物が大量に与えれれる。事故が常態化し個体管理が疎かないなる。事故に無関心になる。これらは営農にとってかなり深刻な問題となっている。
酪農関係者ならだれでも知っていることであるが、北海道農政部が興味ある調査結果を持っていた。公表はされていない。知人を介して入手できた。
堆肥的な農家を概略で説明するが、放牧中心で牛に無理掛けずに50頭足らずで営農する酪農家(P)と、フリーストール牛舎パーラー搾乳の500頭規模の農家(F)を比較する。
P農家の牛乳の手取りが45.4円/キロである。現在98円ほどであるから生産費は53円ほどである。一方F農家は9.2円/キロであるから同じく生産費は89円もしていることになる。
また、1頭あたりの農業所得がP農家は37万9千円ほどである。F農家は11万円ほどしかない。F農家は規模拡大した結果経費ばかりが掛かるということになる。そこで1頭あたりの所得が低いから、たくさん飼わなければならない。頭数を多くすることで、設備投資がかかる、管理がおろそかないなる事故が増えるという悪循環が生まれるのである。酪農家は忙しくなるばかりである。周辺産業と言えば、乳業会社は出荷量が増えるので有難いし、飼料会社は商売繁盛で、機械屋さんも農機具屋も獣医さんも大忙しである。
ところで牛たちが食べる飼料はほとんどがアメリカから輸入される、無関税となっている依然し組み換え穀物のことである。つまり大型農家はかつては余剰であったアメリカ産穀物を大量に購入しなければやってゆけない、農業形態である。こうした飼養形態を畜産加工業と呼ぶ。アメリカ依存の飼養形態は肉牛も肉豚も、そして養鶏も、近代化とか大型化と呼ばれて巨大化する一方である。まんまとアメリカの穀物戦略に乗せられた、日本の畜産といえるのである。
高投資の結果は、消費者に高価な畜産物を提供することになるのである。大型農家は、大量に生産してはいるが、極めてロスが多く特に牛に負担をかける形態といえる。こうした農家は競争力のないことはもちろんのこと、農業の本質すら外れているのである。
大型化することで、余りにも失うことが多いからである。頭数が増えれば目が行き届かなくなり、事故が増える。牛群は淘汰が早くなり弱年齢化する。設備投資が増えるため、回収が急がれ酪農の形態とは関係なく外部資本の言いなりになる。高泌乳が求められて、輸入穀物が大量に与えれれる。事故が常態化し個体管理が疎かないなる。事故に無関心になる。これらは営農にとってかなり深刻な問題となっている。
酪農関係者ならだれでも知っていることであるが、北海道農政部が興味ある調査結果を持っていた。公表はされていない。知人を介して入手できた。
堆肥的な農家を概略で説明するが、放牧中心で牛に無理掛けずに50頭足らずで営農する酪農家(P)と、フリーストール牛舎パーラー搾乳の500頭規模の農家(F)を比較する。
P農家の牛乳の手取りが45.4円/キロである。現在98円ほどであるから生産費は53円ほどである。一方F農家は9.2円/キロであるから同じく生産費は89円もしていることになる。
また、1頭あたりの農業所得がP農家は37万9千円ほどである。F農家は11万円ほどしかない。F農家は規模拡大した結果経費ばかりが掛かるということになる。そこで1頭あたりの所得が低いから、たくさん飼わなければならない。頭数を多くすることで、設備投資がかかる、管理がおろそかないなる事故が増えるという悪循環が生まれるのである。酪農家は忙しくなるばかりである。周辺産業と言えば、乳業会社は出荷量が増えるので有難いし、飼料会社は商売繁盛で、機械屋さんも農機具屋も獣医さんも大忙しである。
ところで牛たちが食べる飼料はほとんどがアメリカから輸入される、無関税となっている依然し組み換え穀物のことである。つまり大型農家はかつては余剰であったアメリカ産穀物を大量に購入しなければやってゆけない、農業形態である。こうした飼養形態を畜産加工業と呼ぶ。アメリカ依存の飼養形態は肉牛も肉豚も、そして養鶏も、近代化とか大型化と呼ばれて巨大化する一方である。まんまとアメリカの穀物戦略に乗せられた、日本の畜産といえるのである。
高投資の結果は、消費者に高価な畜産物を提供することになるのである。大型農家は、大量に生産してはいるが、極めてロスが多く特に牛に負担をかける形態といえる。こうした農家は競争力のないことはもちろんのこと、農業の本質すら外れているのである。