高柳誠『大地の貌、火の声/星辰の歌、血の闇』(書肆山田、2012年04月30日発行)
高柳誠『大地の貌、火の声/星辰の歌、血の闇』はギリシャ悲劇を題材にしている。そして実際に舞台上演された(される)作品である。舞台を前提としているので普通の詩集ではみられないような構成(構造)も含まれている。同じ作品(ことば)が最初の方と最後の方に繰り返され、枠をつくっている。あ、舞台で上演されたものを実際に見てみたいなあ、声をとおして聞いてみたいなあ、と心底思った。
--という期待とは別の意味でも、どうしても舞台を見てみたいという気持ちになった部分がある。
そのことを書く。
今回の詩集には、擬態語(オノマトペ)がたくさん出てくる。これまでの高柳の詩集にそういうものがあったかどうか。私は思い出せない。
その擬態語には2種類ある。
途中から「エウ・ハイ! エウ・ホイ!/エウ・ハイ! エウ・ホイ!」「オロルー、オロルー、オロルー!」という日本語の音ではない(?)声が出てくるが、前半には日本語の声そのものが出てくる。
私が日本語の音(声)と呼ぶのは「ほそほそ」「ひゅうひゅうひゅう/ひゅうひゅうひゅう」なのだが、それは「どろどろどろ」だったり「どっどっどっ」だったりもする。
この音とリズムが、私には、どうしても「エウ・ハイ! エウ・ホイ!/エウ・ハイ! エウ・ホイ!」「オロルー、オロルー、オロルー!」とは合致しない。同じ肉体から出てくるとは思えない。同一人物ではないので、それはそれでいいのかもしれないが、同じ「日本人」の役者が、そういう違った音をひとつの舞台の上で共存させることができるのか。違いを役者の肉体はどう超えるのか--それを実際に見てみたいのである。
「ひゅうひゅうひゅう/ひゅうひゅうひゅう」は、いわゆるオノマトペ、擬態語ということになるのだが、こういう音には意味がなさそうで、実はあると私は考えている。この詩で言えば、
この2行の中にある「は行」の揺らぎ(「風が」は次の「ほそほそ」と響きあって「ふう」という音を意識の底に誘い出す)が「ひゅう」の「ひ」と強く結びつく。
それは「どろどろどろ」「どっどっどっ」が「どよめく」ということばといっしょにつかわれているのと共通した何かを持っている。
ことばは「意味」だけではなく、音(声)そのものとも響きあい、影響しあう。音に誘われてことばが動くということがあるのだ。あるいは、音に誘われなければ、ことばは自然には動けないのかもしれない。肉体はある音を出すことで、その音につながる「意味」を練習(?)するのかもしれない。
で、ここから書くことは、かなり強引なことなのだが。
高柳の詩(私がこれまで読んできた詩を含む)、そのことばは、いま問題にしている擬態語とは別な部分でも、音(声)の響きあいがある。
「たましいのとしゃぶつとしてふんしゅつする」。「さ行」「しゃ行(?)」「た行」の交錯が美しい。ここには「意味」を超えた音(声)の競演がある。
この行の「か行」、「か」す「か」、「け」はい、にも同じものがある。
こういう音(声)の響きあいというのは、長い間の肉体のなかの蓄積とつながっていると思う。
そして、この音(声)の響きあいは、高柳の詩の簡潔な強さとなっていると思う。高柳の詩が非常に読みやすいのは、音(声)の響きが、肉体のなかで蓄積された音楽そのものとなっているからだと私は感じてきた。
それが、この詩では、破れている。
そして、それがどういうことなのか、私にはよくわからない。
「エウ・ハイ! エウ・ホイ!/エウ・ハイ! エウ・ホイ!」と「ひゅうひゅうひゅう」が役者のなかで、どんな「音(声)」として動くのか、想像ができない。高柳が題材にしている「バッカイ」そのものが、ふたつの声の闘いでもあるから、この作品は、それを踏まえてふたつの声(音)を用意しているのかもしれないが……。
それが複数の人物の声(音)である場合は、まだ納得がゆくが、たとえば。
「わたくしの肌はほんのりとほてり、わたくしの骨は恥じらいにやわらかくなりました」という美しい響きに、「感触」「陶然たる」はにあわない。何か異質な音に聞こえる。「薔薇」も私が見ている薔薇ではない感じがする。まあ、古代ギリシャの薔薇だから、それはそれでいいのかなあ。
「おてて」「あんよ」という美しい音と「バラバラ」があわない。体の中を、ぞくっとさせるものがある。
高柳は役者の肉体をどんなふうに想定して、この詩を書いたのかなあ。
高柳誠『大地の貌、火の声/星辰の歌、血の闇』はギリシャ悲劇を題材にしている。そして実際に舞台上演された(される)作品である。舞台を前提としているので普通の詩集ではみられないような構成(構造)も含まれている。同じ作品(ことば)が最初の方と最後の方に繰り返され、枠をつくっている。あ、舞台で上演されたものを実際に見てみたいなあ、声をとおして聞いてみたいなあ、と心底思った。
--という期待とは別の意味でも、どうしても舞台を見てみたいという気持ちになった部分がある。
そのことを書く。
今回の詩集には、擬態語(オノマトペ)がたくさん出てくる。これまでの高柳の詩集にそういうものがあったかどうか。私は思い出せない。
その擬態語には2種類ある。
途中から「エウ・ハイ! エウ・ホイ!/エウ・ハイ! エウ・ホイ!」「オロルー、オロルー、オロルー!」という日本語の音ではない(?)声が出てくるが、前半には日本語の声そのものが出てくる。
水面(みなも)に嵌(は)めこまれた貧血質の空の中を
鉛色に染められた雲が流れてゆき
一本だけ枯れ残った樹木の
ひねこびた幹の乾いた肌を
風がほそほそ渡ってゆく
ひゅうひゅうひゅう
ひゅうひゅうひゅう
死者たちの吐く苦しげな息が
大地の底から噴き上がり
魂の奥を螺旋形に抉って
私の息のうちに潜り込む
私が日本語の音(声)と呼ぶのは「ほそほそ」「ひゅうひゅうひゅう/ひゅうひゅうひゅう」なのだが、それは「どろどろどろ」だったり「どっどっどっ」だったりもする。
この音とリズムが、私には、どうしても「エウ・ハイ! エウ・ホイ!/エウ・ハイ! エウ・ホイ!」「オロルー、オロルー、オロルー!」とは合致しない。同じ肉体から出てくるとは思えない。同一人物ではないので、それはそれでいいのかもしれないが、同じ「日本人」の役者が、そういう違った音をひとつの舞台の上で共存させることができるのか。違いを役者の肉体はどう超えるのか--それを実際に見てみたいのである。
「ひゅうひゅうひゅう/ひゅうひゅうひゅう」は、いわゆるオノマトペ、擬態語ということになるのだが、こういう音には意味がなさそうで、実はあると私は考えている。この詩で言えば、
ひねこびた幹の乾いた肌を
風がほそほそ渡ってゆく
この2行の中にある「は行」の揺らぎ(「風が」は次の「ほそほそ」と響きあって「ふう」という音を意識の底に誘い出す)が「ひゅう」の「ひ」と強く結びつく。
それは「どろどろどろ」「どっどっどっ」が「どよめく」ということばといっしょにつかわれているのと共通した何かを持っている。
ことばは「意味」だけではなく、音(声)そのものとも響きあい、影響しあう。音に誘われてことばが動くということがあるのだ。あるいは、音に誘われなければ、ことばは自然には動けないのかもしれない。肉体はある音を出すことで、その音につながる「意味」を練習(?)するのかもしれない。
で、ここから書くことは、かなり強引なことなのだが。
高柳の詩(私がこれまで読んできた詩を含む)、そのことばは、いま問題にしている擬態語とは別な部分でも、音(声)の響きあいがある。
肺腑の奥を抉る記憶が、
思い出したくもない呪われた記憶が、
魂の吐瀉物として噴出する……。
「たましいのとしゃぶつとしてふんしゅつする」。「さ行」「しゃ行(?)」「た行」の交錯が美しい。ここには「意味」を超えた音(声)の競演がある。
かすかにわたしを呼ぶ気配が、
この行の「か行」、「か」す「か」、「け」はい、にも同じものがある。
こういう音(声)の響きあいというのは、長い間の肉体のなかの蓄積とつながっていると思う。
そして、この音(声)の響きあいは、高柳の詩の簡潔な強さとなっていると思う。高柳の詩が非常に読みやすいのは、音(声)の響きが、肉体のなかで蓄積された音楽そのものとなっているからだと私は感じてきた。
それが、この詩では、破れている。
そして、それがどういうことなのか、私にはよくわからない。
「エウ・ハイ! エウ・ホイ!/エウ・ハイ! エウ・ホイ!」と「ひゅうひゅうひゅう」が役者のなかで、どんな「音(声)」として動くのか、想像ができない。高柳が題材にしている「バッカイ」そのものが、ふたつの声の闘いでもあるから、この作品は、それを踏まえてふたつの声(音)を用意しているのかもしれないが……。
それが複数の人物の声(音)である場合は、まだ納得がゆくが、たとえば。
夜風は甘やかな薔薇の香りを運び、その温かな感触が、わたくしの足首からふくらはぎ、ふくらはぎからふとももへと這い昇って、わたくしの頬を陶然たる色に染めました。わたくしの肌はほんのりとほてり、わたくしの骨は恥じらいにやわらかくなりました。
「わたくしの肌はほんのりとほてり、わたくしの骨は恥じらいにやわらかくなりました」という美しい響きに、「感触」「陶然たる」はにあわない。何か異質な音に聞こえる。「薔薇」も私が見ている薔薇ではない感じがする。まあ、古代ギリシャの薔薇だから、それはそれでいいのかなあ。
これが、わたしの甘い乳房を求めて幼い日に差し出された可愛い<おてて>。そして、これが、わたしを追いかけて初めて大地を踏み出した可愛い<あんよ>。おお、それがこんなにも無残な姿になるなんて。元の形をとどめぬほど血まみれになって、バラバラに飛び散らかって……。
「おてて」「あんよ」という美しい音と「バラバラ」があわない。体の中を、ぞくっとさせるものがある。
高柳は役者の肉体をどんなふうに想定して、この詩を書いたのかなあ。
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