川上亜紀『三月ウサギの耳をつけてほんとの話を書くわたし』(思潮社、2012年05月10日発行)
川上亜紀『三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし』の「ほんと」とはどういうものだろうか。
川上にとって「ほんと」は一瞬のことがら、独立して存在するエピソードである。月には兎が住んでいる。餅つきをしている。それを見ようとして双眼鏡を買った父--それが「ほんと」である。それは月に兎が住んでいて餅をついているという「お話」に影響を受けているけれど、その「お話」を突き破っている。そこにあるのは「お話」とは別個の父の「一瞬」である。それは父の「欲望」とだけ結びついている。月で餅をついている兎を見たい、という「欲望」。それが「ほんと」なのである。その「欲望」にしたがって動いた一瞬が「ほんと」なのである。
そして、そのことが「ほんと」であるということ、「ほんと」を実践できるということを、川上は「常識人」の定義にしている。「常識人」とは「ほんと」のことをするひとである。--まあ、論理的に、正しいね。
でも、ほんとう?
さっそく、母親が否定する。「違う」という。
ここには具体的に書いてはいないけれど、母の言っていることを想像するのはたやすい。一般に言われていることだからね。
父のしたことは非常識である。月に兎は住んでいないし、餅つきもしていない。そういう常識を無視している。このとき「常識」とは「社会のストーリー(物語・お話)」である。ストーリーを逸脱したものは「ほんと(常識)」ではありえない。まあ、そうだね。誰が見たって、川上の父のしたことが川上の書いているとおりなら「非常識」である。常識ではありえないし、「ほんと」ではありえない。「ほんと」とは、誰にでも共有できることがら--土星には輪がある、というようなことだからね。
でも、川上は、そういう考え方に対して「違う」と言っているのだ。
では、「ほんと」とは何か。
「お話」を突き破って動いていく運動。「ストーリー」を突き破っていく運動。ストーリーとは相いれないもの。
詩、だね。
「ほんと」ということばで川上は詩を定義している。
そうすると、ストーリー(社会常識)とは何か。それは人間を縛る「論理」である。そういうものは、一種の「うそ」である。人間が共同生活をスムーズに進めるための「方便」である、ということになるのかもしれない。
--そこまでは川上は明確に書いていないのだけれど。私は、そんなふうに想像する。「誤読」する。
でも、ここまで私が書いてきたことなら、取り立てて目新しい「詩の定義」ではないかもしれない。散文は歩行、詩はダンス、という「定義」のバージョンXのようなものかもしれない。
川上の「定義」は、少し違っているかもしれない。
「頭のなかのツル草がどんどん伸びてしまった」の「伸びる」。「詩」は一瞬、その場に出現するダンスではない。歩行のように「伸びる(延びる)」のである。最初に取り上げた詩のことばで言えば「続いていく(続く)」なのである。
しかも、その「続く」は、「考え、るので」という川上独自の思考の結果なのである。「感じる」のではなく「考え、るので」。
この「考え」と「るので」の間の、川上独自の句点「、」--切断と、連続。そこに川上の「詩」がある。
最初の作品にもどって補足(?)すれば……。
川上が父を「常識人」と呼ぶ。それに対して母が「違う」と言う。そのとき「考え」はいったん切断される。その切断を「、」という瞬間をはさんで、しかし、川上はつないでゆく。伸ばしていく。そのとき「考え」はツル草のように「伸びる(延びる)」。
で、その結果。
川上の作品は、なんだかだらだらと長くなる。へたくそな(?)散文、学校作文のように起承転結とは無縁の、ただ思いついたことを書きつないだだけのようなものになる。
でも、これが「ほんと」なのだ。川上の「ほんと」、つまり「ことばの欲望」(ことばの本能)なのだ。「ことばの肉体」は、そう動くしかないのである。
こういうだらだらしたことばの運動は、ときどき、そのだらだらの果てでないとたどりつけないところにたどりつくことがある。
この「顔」の発見は美しい。この詩集のハイライトであると思った。「顔」こそが「ほんと」である。「顔」をもたない人間はいない。
川上の「顔」は「考え、るので」という「顔」である。
「ので」は「理由づけ」である。「考え、る」には「理由」がいる。その「理由」のために、川上のことばは長くなるのだが、その長く伸びたツル草の先に、ぱっと「花」が開く。
「花」はたくさんあったほうが豪華かもしれないが、一輪というのも魅力的である。月で餅つきをする兎を見るために双眼鏡を買ったお父さんのように、いつまでも印象に残る。それだけじゃない(違う)というひとがいるかもしれないが、それだけでも十分である。
川上亜紀『三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし』の「ほんと」とはどういうものだろうか。
望遠鏡で土星の輪を発見したのがガリレオだったとしても
月には兎が住んで餅つきをしているというお話がなかったら
わたしの父は双眼鏡を買ってまで月を見ようとはしなかったはずだ
わたしにとって父は最後の常識人であった
最後の常識人がこの世を去った、と嘆いていると
母が憤然として「違う」と言うのだった
「いったいどこがとのように常識人だったのか」
と激しくわたしに問いかけるのである
(「十五夜の月の下でほんとの話はまだ続いていく」)
川上にとって「ほんと」は一瞬のことがら、独立して存在するエピソードである。月には兎が住んでいる。餅つきをしている。それを見ようとして双眼鏡を買った父--それが「ほんと」である。それは月に兎が住んでいて餅をついているという「お話」に影響を受けているけれど、その「お話」を突き破っている。そこにあるのは「お話」とは別個の父の「一瞬」である。それは父の「欲望」とだけ結びついている。月で餅をついている兎を見たい、という「欲望」。それが「ほんと」なのである。その「欲望」にしたがって動いた一瞬が「ほんと」なのである。
そして、そのことが「ほんと」であるということ、「ほんと」を実践できるということを、川上は「常識人」の定義にしている。「常識人」とは「ほんと」のことをするひとである。--まあ、論理的に、正しいね。
でも、ほんとう?
さっそく、母親が否定する。「違う」という。
ここには具体的に書いてはいないけれど、母の言っていることを想像するのはたやすい。一般に言われていることだからね。
父のしたことは非常識である。月に兎は住んでいないし、餅つきもしていない。そういう常識を無視している。このとき「常識」とは「社会のストーリー(物語・お話)」である。ストーリーを逸脱したものは「ほんと(常識)」ではありえない。まあ、そうだね。誰が見たって、川上の父のしたことが川上の書いているとおりなら「非常識」である。常識ではありえないし、「ほんと」ではありえない。「ほんと」とは、誰にでも共有できることがら--土星には輪がある、というようなことだからね。
でも、川上は、そういう考え方に対して「違う」と言っているのだ。
では、「ほんと」とは何か。
「お話」を突き破って動いていく運動。「ストーリー」を突き破っていく運動。ストーリーとは相いれないもの。
詩、だね。
「ほんと」ということばで川上は詩を定義している。
そうすると、ストーリー(社会常識)とは何か。それは人間を縛る「論理」である。そういうものは、一種の「うそ」である。人間が共同生活をスムーズに進めるための「方便」である、ということになるのかもしれない。
--そこまでは川上は明確に書いていないのだけれど。私は、そんなふうに想像する。「誤読」する。
でも、ここまで私が書いてきたことなら、取り立てて目新しい「詩の定義」ではないかもしれない。散文は歩行、詩はダンス、という「定義」のバージョンXのようなものかもしれない。
川上の「定義」は、少し違っているかもしれない。
朝めがさめると、あなたのことを考え、
考え、るので、頭のなかのツル草がどんどん伸びてしまった
(「三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし*」)
「頭のなかのツル草がどんどん伸びてしまった」の「伸びる」。「詩」は一瞬、その場に出現するダンスではない。歩行のように「伸びる(延びる)」のである。最初に取り上げた詩のことばで言えば「続いていく(続く)」なのである。
しかも、その「続く」は、「考え、るので」という川上独自の思考の結果なのである。「感じる」のではなく「考え、るので」。
この「考え」と「るので」の間の、川上独自の句点「、」--切断と、連続。そこに川上の「詩」がある。
最初の作品にもどって補足(?)すれば……。
川上が父を「常識人」と呼ぶ。それに対して母が「違う」と言う。そのとき「考え」はいったん切断される。その切断を「、」という瞬間をはさんで、しかし、川上はつないでゆく。伸ばしていく。そのとき「考え」はツル草のように「伸びる(延びる)」。
で、その結果。
川上の作品は、なんだかだらだらと長くなる。へたくそな(?)散文、学校作文のように起承転結とは無縁の、ただ思いついたことを書きつないだだけのようなものになる。
でも、これが「ほんと」なのだ。川上の「ほんと」、つまり「ことばの欲望」(ことばの本能)なのだ。「ことばの肉体」は、そう動くしかないのである。
こういうだらだらしたことばの運動は、ときどき、そのだらだらの果てでないとたどりつけないところにたどりつくことがある。
十月のわたしの誕生日、
わたしはカミキタ病院の裏側の出入り口に向かってカーブした道を急いで歩いていき
病院をでて駅に向かっていく三人の白衣を着た医療スタッフに軽く会釈されたので
あわててこちらも会釈したあとでいったい誰と間違えられたのだろうと首をかしげたが
夜間出入り口で名前も書かず面会のバッジもつけずにエレベーターにのったとき
そのエレベーターは内側に鏡が貼ってあるのでそういえばわたしにも「顔」があったことを思いだした
(「三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし**」)
この「顔」の発見は美しい。この詩集のハイライトであると思った。「顔」こそが「ほんと」である。「顔」をもたない人間はいない。
川上の「顔」は「考え、るので」という「顔」である。
「ので」は「理由づけ」である。「考え、る」には「理由」がいる。その「理由」のために、川上のことばは長くなるのだが、その長く伸びたツル草の先に、ぱっと「花」が開く。
「花」はたくさんあったほうが豪華かもしれないが、一輪というのも魅力的である。月で餅つきをする兎を見るために双眼鏡を買ったお父さんのように、いつまでも印象に残る。それだけじゃない(違う)というひとがいるかもしれないが、それだけでも十分である。
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