今西富幸「がん首」(「イリプスⅡnd」9、2012年05月25日発行)
今西富幸「がん首」を読みながら、ことばの暴力について考えた。というか、暴力ということばがふいに思いつき、そのことについて書いてみようと思った。
「みられると新聞は書いた/しかし、/みられるとはいったいなんであるのか」と今西は怒っている。「みられる」ということばに対して怒っている。「みられる」にはとんでもない暴力が隠されているのだ。
文法的には「みられる」は推量をあらわす。断定しない。
なぜ、これが暴力か。
「推量」は直接的な関係を拒絶しているからである。そこには直接的な関係がないからである。「藤島あい子の死」を、新聞記事を書いた記者は、自分から切り離している。無関係を、そこに導入している。まあ、無関係を持ち込んでいるのではなく、警察の発表したことがらをそのまま書いている--と記者はいうかもしれないが、この「他人まかせ」の「無関係」が暴力なのである。
無関係というよりも、関係がわからない、といったほうがいいかもしれない。この「わからない」は「隠されている」ということである。「藤島あい子」と誰かの関係も隠されてしまう。「藤島あい子」が死んだという事実ははっきりしているのに、その死と誰か(容疑者)との関係が隠されている。
「みられる」という推量は、何かと何かを結びつけることである。その結びつきのなかに「関係」がある、関係とは結びつきであるということもできるのだが、推量は直接的な結びつき(関係)を、具体から抽象へとかえてしまう。
具体的なものが、そこでは「想像」にかわってしまう。
ここに暴力がある。
「想像」(想像力)は、何かを結びつける作用をするが、同時に何かを隠す作用もするのだ。
直接的関係を隠し、自己を、安全な場所へ引きこもらせる精神の働き。そこに暴力がある。肉体の不在。そこに暴力がある。
その暴力は、「藤島あい子」を死に至らせた「肉体の暴力」よりも、きっとタチが悪い。容疑者の暴力は肉体的である。直接的である。だから、誰の目にも「悪い」ものとして認識される。
けれど「みられる」には肉体がない。だから、それを告発するのはむずかしい。
「みられる」--この直接性を放棄したことばの運動、想像力は、人間をばらばらにする。その「ばらばらにする」ときの力は、なかなか、はっきりわかるようには説明できない。(私には説明できない。)ただ、たしかに、それは暴力であると、私には納得できた。
今西のことばの強い響き--その告発の強さが、そこに暴力が隠れているということを語っている。
同じような表現が、もう一度出てくる。
「可能性もある」も「みられる」と同じだ。自分自身(新聞記者)の「肉体」を事件から切り離し、「頭」で、「事件」が起きたときの運動を再現している。その想像した運動のなかには「藤島あい子」の「肉体」と容疑者の「肉体」があるように見えるが、ほんとうは、ない。
「頭」が、ただそういう運動を可能性として思い描いているだけである。「肉眼」でそれを見るわけではない。
そこに暴力がある。
視点を変えるとわかりやすいかもしれない。
たとえば道端で誰かが倒れている。腹を抱えている。うめいている。それを見たとき、ひとは、「あ、このひとは腹が痛いのだ。そうして苦しんでいるのだ」ということが直感的にわかる。誰かが芝居をしていて、その苦痛は嘘かもしれないが、嘘・ほんとうに関係なく、その場に立ち合った人間の「肉体」は、それを感じてしまう。
自分の痛みではないのに、感じてしまう。これは暴力の対極にある感覚である。「共感」である。「共感」がないとき、そこに暴力が生まれる。
この想像力と、新聞記者の想像力を比較すると、新聞記者の「ことば」が暴力に満ちていることがわかる。そこには「自分の痛み」がない。「共感」がない。そして、その「共感」のなさは、「直接性」の欠如からきている。
「直接性」というのは、「肉体」がそこに存在しないということである。
だから、「共感」というのは「肉体」が「場」に直接的にあること、「場」を「共有」することを前提としているといえるかもしれない。
記者は「警察発表を書いているだけ」というかもしれない。それが「客観性」だというかもしれない。たしかに、それはそうなのだが、そのとき「頭」は激しく暴力的である。直接性を失うことによってはじまる虚無的な暴力がそこにある。「肉体」の共感を排除してはじまる虚無としてのの運動--それが暴力である。
今西の怒りは、新聞に掲載された写真にもむけられる。そこにある写真、なぜそうやって写真が存在するのか--写真を奪ってくる「暴力」に対しても怒っている。
「死者と生者の淵に横たわっているもの」というのは、なかなかむずかしい。「死」を直接的に体験することはできないからである。だが、「死者」とは「以前は生きていた者(生前ということばがあるね)」なのだから、「死者と生者の淵」とは「生者であったものと生者の淵」であり、「生者と生者の淵」でもある。ひととひとの間にある「淵」--それは「等価」である。「等価」ということを知っている「肉体」が「共感」を生きる。その「等価」を忘れた「頭」が暴力を引き起し、たとえば卒業写真から「藤島あい子」の写真を盗み取ってくるのである。盗み取るという暴力を平気でおこなってしまうのである。「肉体」への直接的な共感がないから、そういう暴力をおこなえるのである。
この怒りを今西は、次のように言いなおす。
「藤島あい子」の顔を盗み取るとき、その「場」をいっしょに生きている同級生は抹消される。そこにも暴力がある。それは「藤島あい子」に対してふるわれた暴力と「等価」である。
誰にも「肉体」がある。級友の「肉体」は抹消された。直接的関係を生きているものはすべて排除され、「藤島あい子」の死という抽象だけが存在する。
「不在」をもちこむ暴力。
「不在」にさせられたものの「痛み」。
それは「藤島あい子」の「痛み」にほかならないのだが……。
肉体が「不在」なところで動くことばは暴力そのものである--書いているうちに時間がなくなったので、こんなふうに結論(?)だけ書いておく。
(私は目の状態が非常に悪くて、パソコンに向かっているのがつらい。)
今西富幸「がん首」を読みながら、ことばの暴力について考えた。というか、暴力ということばがふいに思いつき、そのことについて書いてみようと思った。
肉欲の棒を突き刺され
藤島あい子は死んだ
台風一過の朝に
わたしはふいに
その記事を読んだのだった
中学生のころの制服が写っていた
大阪西成の簡易宿泊所で
愛情のもつれによる暴行とみられる
みられると新聞は書いた
しかし、
みられるとはいったいなんであるのか
致命傷ではなかったその一撃が
書かれなかった事実
台風3号が通過した夜の事実
「みられると新聞は書いた/しかし、/みられるとはいったいなんであるのか」と今西は怒っている。「みられる」ということばに対して怒っている。「みられる」にはとんでもない暴力が隠されているのだ。
文法的には「みられる」は推量をあらわす。断定しない。
なぜ、これが暴力か。
「推量」は直接的な関係を拒絶しているからである。そこには直接的な関係がないからである。「藤島あい子の死」を、新聞記事を書いた記者は、自分から切り離している。無関係を、そこに導入している。まあ、無関係を持ち込んでいるのではなく、警察の発表したことがらをそのまま書いている--と記者はいうかもしれないが、この「他人まかせ」の「無関係」が暴力なのである。
無関係というよりも、関係がわからない、といったほうがいいかもしれない。この「わからない」は「隠されている」ということである。「藤島あい子」と誰かの関係も隠されてしまう。「藤島あい子」が死んだという事実ははっきりしているのに、その死と誰か(容疑者)との関係が隠されている。
「みられる」という推量は、何かと何かを結びつけることである。その結びつきのなかに「関係」がある、関係とは結びつきであるということもできるのだが、推量は直接的な結びつき(関係)を、具体から抽象へとかえてしまう。
具体的なものが、そこでは「想像」にかわってしまう。
ここに暴力がある。
「想像」(想像力)は、何かを結びつける作用をするが、同時に何かを隠す作用もするのだ。
みられるとはいったいなんであるか
直接的関係を隠し、自己を、安全な場所へ引きこもらせる精神の働き。そこに暴力がある。肉体の不在。そこに暴力がある。
その暴力は、「藤島あい子」を死に至らせた「肉体の暴力」よりも、きっとタチが悪い。容疑者の暴力は肉体的である。直接的である。だから、誰の目にも「悪い」ものとして認識される。
けれど「みられる」には肉体がない。だから、それを告発するのはむずかしい。
「みられる」--この直接性を放棄したことばの運動、想像力は、人間をばらばらにする。その「ばらばらにする」ときの力は、なかなか、はっきりわかるようには説明できない。(私には説明できない。)ただ、たしかに、それは暴力であると、私には納得できた。
今西のことばの強い響き--その告発の強さが、そこに暴力が隠れているということを語っている。
同じような表現が、もう一度出てくる。
藤島あい子は死んだ
直接の死因は胸部刺創
争った跡はなく
ゆきずりの殺しの可能性もある
可能性もあると新聞は書いた
しかし、
可能性もあるとはいったいなんであるか
「可能性もある」も「みられる」と同じだ。自分自身(新聞記者)の「肉体」を事件から切り離し、「頭」で、「事件」が起きたときの運動を再現している。その想像した運動のなかには「藤島あい子」の「肉体」と容疑者の「肉体」があるように見えるが、ほんとうは、ない。
「頭」が、ただそういう運動を可能性として思い描いているだけである。「肉眼」でそれを見るわけではない。
そこに暴力がある。
視点を変えるとわかりやすいかもしれない。
たとえば道端で誰かが倒れている。腹を抱えている。うめいている。それを見たとき、ひとは、「あ、このひとは腹が痛いのだ。そうして苦しんでいるのだ」ということが直感的にわかる。誰かが芝居をしていて、その苦痛は嘘かもしれないが、嘘・ほんとうに関係なく、その場に立ち合った人間の「肉体」は、それを感じてしまう。
自分の痛みではないのに、感じてしまう。これは暴力の対極にある感覚である。「共感」である。「共感」がないとき、そこに暴力が生まれる。
この想像力と、新聞記者の想像力を比較すると、新聞記者の「ことば」が暴力に満ちていることがわかる。そこには「自分の痛み」がない。「共感」がない。そして、その「共感」のなさは、「直接性」の欠如からきている。
「直接性」というのは、「肉体」がそこに存在しないということである。
だから、「共感」というのは「肉体」が「場」に直接的にあること、「場」を「共有」することを前提としているといえるかもしれない。
記者は「警察発表を書いているだけ」というかもしれない。それが「客観性」だというかもしれない。たしかに、それはそうなのだが、そのとき「頭」は激しく暴力的である。直接性を失うことによってはじまる虚無的な暴力がそこにある。「肉体」の共感を排除してはじまる虚無としてのの運動--それが暴力である。
今西の怒りは、新聞に掲載された写真にもむけられる。そこにある写真、なぜそうやって写真が存在するのか--写真を奪ってくる「暴力」に対しても怒っている。
藤島あい子の
顔は
鮮やかな窃盗のように
かすめとられたものなのだった
がん首は笑っていた
おそらく
それは彼女と同級の寝屋川市立第一中学の
卒業アルバムの写真であった
現世を垣間見る
藤島あい子の目
死者と生者の淵に横たわっているものは
死者の側からも
生者の側からも
等価である
「死者と生者の淵に横たわっているもの」というのは、なかなかむずかしい。「死」を直接的に体験することはできないからである。だが、「死者」とは「以前は生きていた者(生前ということばがあるね)」なのだから、「死者と生者の淵」とは「生者であったものと生者の淵」であり、「生者と生者の淵」でもある。ひととひとの間にある「淵」--それは「等価」である。「等価」ということを知っている「肉体」が「共感」を生きる。その「等価」を忘れた「頭」が暴力を引き起し、たとえば卒業写真から「藤島あい子」の写真を盗み取ってくるのである。盗み取るという暴力を平気でおこなってしまうのである。「肉体」への直接的な共感がないから、そういう暴力をおこなえるのである。
この怒りを今西は、次のように言いなおす。
藤島あい子の顔は
おそらく
寝屋川市立第一中学の卒業アルバムから
盗まれて新聞に掲載されるにあたり
同級の友らの顔は等しく抹消されたのである
そこだけが
不在の痛み
「藤島あい子」の顔を盗み取るとき、その「場」をいっしょに生きている同級生は抹消される。そこにも暴力がある。それは「藤島あい子」に対してふるわれた暴力と「等価」である。
誰にも「肉体」がある。級友の「肉体」は抹消された。直接的関係を生きているものはすべて排除され、「藤島あい子」の死という抽象だけが存在する。
「不在」をもちこむ暴力。
「不在」にさせられたものの「痛み」。
それは「藤島あい子」の「痛み」にほかならないのだが……。
肉体が「不在」なところで動くことばは暴力そのものである--書いているうちに時間がなくなったので、こんなふうに結論(?)だけ書いておく。
(私は目の状態が非常に悪くて、パソコンに向かっているのがつらい。)
火の恍惚をめぐる馬―今西富幸詩集 | |
今西 富幸 | |
矢立出版 |