詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」

2012-05-30 10:28:04 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 「現代詩手帖」2012年06月号は「現代詩手帖賞」の詩人を特集している。50回記念、ということである。50年以上になるわけだから、もう死んでしまったひともいる。そういうひとの作品はない。書かなかったひともいる。
 巻頭の暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」は、いわば、いまの現代詩のトップランナーの作品ということになるのか。

不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、

 「六月十日」か。ジョイスだね。「道端の青い小さな花」は私は思い出すことができないけれど、ジョイスにそういうことばがあるのだろう。
 「不安が」ではじまり、「もだえる」「ゆだる」という動詞のあいだで「淡い」と「炎」の文字が交錯する。あ、ここはおもしろいなあ。私は、ことばとは基本的に音(声)だと思っている。そのことばは音(声)であるという点からいうと、「もだえる」「ゆだる」は「だ」の音の豊かさが響きあっているのだが、「淡い」と「炎」では音が消えて「文字」が主役になる。主役になるのだけれど--そこに音がないために、不思議なことに(?)、「もだえる」「ゆだる」がより強烈になる。
 音(耳、聴覚)と文字(目、視覚)が不思議な関係にある。
 それは2行目にも言える。「青い小さな花」はどうしたって視覚を刺激する。そして次の「煮る」は1行目の「もだえる」「ゆだる」と響きあう。もののあり方、動きとしても「ゆだる」と「煮る」は似通う。
 こういうことばの視覚、聴覚をゆさぶりながら、ことばのあいまいな混沌にもどり、そこからことばを動かそうとしている。
 3連目が私はとても気に入った。

(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)

 「小声で」「古語で」か。うっとりしてしまうなあ。「古語」だから音は聞こえるが「意味」は聞こえない。これが、「柑子」のように、「意味」は目には見えるけれど音が聞こえないことばとぶつかり、そこに「ことばの空間」を拡げる。
 「柑子」を音が聞こえないことば--と私が呼ぶのは、カンシなんて、いま、言わないでしょ? 聞かないでしょ?という意味である。聞かないけれど、目で見ると「蜜柑か」と意味はわかる。文字のなかの「古語」だね。
 これに「雨」がかさなる。「雨」は目に見える。耳にも聞こえる。そして、目にしろ耳にしろ、一種のフィルターの様なものがかかるのが(かけるのが)雨である。「濡れそぼる」の「そぼる」「くぐもる」そのことばのなかの「濁音」が、肉体と対象の間にはいりこむ。邪魔をする。(青天の空気に比べて、というくらいの意味だけれど。)
 で、どんな話?

((ちがうよ、あれは鳩だよ))

 人ではなく、鳩。この転換。そして、二重括弧の不思議さ。聴覚と視覚の二重の感覚の空間みたい。
 ジョイスは、そういうことを試みたのかな?
 そういうところもあるだろうけれど--というか「フィネガンズウィーク」はそういう独創なのかもしれないけれど。

 なるほどなあ。暁方ミセイにとっては、ジョイスのことばの運動は、二重性(あるいは重層性)の運動なのか。
 ジョイスを意識していれば、のことだけれど。

何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。

 動き(鳴いている)と不動(動かないでいる)、見える(反射して)と見えない(見えなくなる)のあいだの「隠れて」。
 そのことばの運動と連動しているのだと思うが「もうすぐ」の「ぐ」の濁音がゆたかでいいなあ。「遠く潰れた緑」の「つぶれた」の「ぶ」の濁音もいいなあ。「遠く潰れた緑」は遠いために緑の諧調が識別できないということだろうけれど、「つぶれた」という音の豊かさによって、重さによって、目ではなく耳にも響いている。

 暁方は耳と目のバランスがとてもいい詩人なのだと、私はいまごろになってやっと気がついた。












ウイルスちゃん
暁方 ミセイ
思潮社
コメント
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