詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

みえのふみあき「クヌギ林にて」

2012-05-25 08:59:44 | 詩(雑誌・同人誌)
みえのふみあき「クヌギ林にて」(「乾河」2012年06月01日発行)

 みえのふみあき「クヌギ林にて」(Occurence41 )には、おもしろいなあと思う部分と、ここはいやだなあという部分がある。

春の雨が
クヌギの尖った冬の小枝から
薄い紅緑色の●葉を
甦らせた
ぼくは落ち葉に覆われた
記憶の小道を辿ろうとしたが
ことばは空白になった 
空白の先にも世界はあった
ひとりの少女が
掛け算を間違えて殺された
その遠い半島では
春の雨は降らないのだ
       (谷内注・●は女へん+束+攵、●葉で「わかば」と読むのだと思う)

 おもしろいと思うのは「記憶の小道を辿ろうとしたが/ことばは空白になった/空白の先にも世界はあった」という3行である。
 ここからみえののいろいろなことを「誤読」することができる。「ことば」をみえのがどう考えているかをあれこれ思いめぐらすことができる。私の思ったことが「正しい」かどうかは関係がない。ただ、私は勝手に思いめぐらすだけである。
 「ことばが空白になった」は「比喩」である。「記憶の道を辿ることができなかった」ということになるだろう。このとき「記憶」は「ことば」そのものである。みえのは記憶をことばにすることよって意識(精神、頭脳?)に定着させていることになる。ことばが記憶の現像液であるということもできる。それは、ことばが「世界」であるということかもしれないのだが……。
 微妙に違う。
 「空白の先にも世界はあった」というときの「空白」は「ことばの空白」である。それはことばが動いていかない、その先の方にもということである。
 で、論理的に考えると、この瞬間、「矛盾」が噴出してくる。
 「記憶」は「ことば」によって現像・定着し、そこに「世界」を繰り広げる。「ことば」がその機能を発揮しないとき、「空白」になるのは「記憶」そのものである。真っ白な印画紙としての「世界」がそこにある。
 それなのに、その「空白の印画紙」の向こうに「世界」がある。これは、どういうこと? ことばでは定着させることができない世界があるという意味だろうか。それならそれはそれでいいのだが。
 その、ことばでは定着させることのできない世界を、みえのは、やはりことばで書くしかない。ことばで「現像」してしまう。

ひとりの少女が
掛け算を間違えて殺された

 変だねえ。
 いま、ここに書かれているのは、ことば?
 一般的には「ことば」であるのだが、みえのにとっては「ことば」ではない。少なくとも、それは「記憶の小道」をたどるときのことばではない。そのことばで記憶の小道をたどれない。
 みえのは、ここではとても重大な、みえのの「肉体」にかかわることを書こうとしている。
 それが最初に指摘した3行に凝縮している。
 でも、それが、

ひとりの少女が
掛け算を間違えて殺された

 という2行で、とても変な具合にねじれていく。
 「掛け算を間違え」たという「比喩」がおかしいのだ。「殺された」という「比喩」がおかしいのだ。
 みえの本来の「比喩」とは違った「文法」でことばが動いている。
 それが、そのことばの運動が、私は嫌いである。「掛け算を間違えて殺された」という「比喩」がいやだなあ、と思う。

 違った角度から見てみたい。
 みえのは、とても視覚的な詩人だ。「尖った」小枝、「薄い紅緑色」という目でとらえた世界がみえのの強い視力をあらわしている。「若葉」と書かずに「●葉」と書くのも、視力の強さをあらわしている。「覆われた」も、また視力と関係している。
 「覆われた」は「隠された」であり、それは視力ではたどれないという意味でもある。みえののことばは視力で動いていく。視力でたどれない部分は「空白」なのである。
 でも、ほんとう?
 視力でたどれないものには、空白のほかに闇もある。闇の方が視力を拒絶しているかもしれない。
 そうであるなら、

ひとりの少女が
掛け算を間違えて殺された

 は暗黒の世界そのものの「比喩」かもしれない。「空白」とは対極にある「世界」。「空白の先」の「世界」は、空白の延長ではなく、空白の対極ということかもしれない
 と、考えても、私は、どうしてもこの2行が好きになれない。
 納得できない。

 見たの?--私は、突然、みえのに問いかけたくなるのである。
 「春の雨」「クヌギ」、その「尖った」「小枝」「薄い紅緑色の●葉」「落ち葉」、そして「覆われた」はすべてみえのが見たものだろう。「記憶の小道」だけではなく、「空白」さえ見たといえるかもしれない。「辿る」とは足を動かして移動することではなく、みえのにとっては「視線」を移動させることなのだと思う。
 で、「ひとりの少女が/掛け算を間違えて殺された」は「見た」世界?
 「比喩」だから、それは見えない?
 何か違うねえ。
 「ひとりの少女が/掛け算を間違えて殺された」は「比喩」を逸脱している。それは、奇妙な「物語」である。みえのが実際に見たことのない何か。みえのとは別のところで動いている「物語」。そして、そこにはみえのの肉体は何の関与もしていない。その「物語」をみえのは耳で聞いてもいない。つまり、殺すときの銃の音、あるいは殺されるときの少女の悲鳴をみえのは聞いてはいない。また、その少女の肌や髪や服にふれるということもしていない。「肉体」から遠く離れた場所で、その「物語」は起きている。
 だからこそ、つぎに「その遠い半島」ということばの「遠い」がある。「ことばの肉体」は正直だから、どうしてもそこに「遠い」という表現を呼び寄せてしまう。こういう「ことばの肉体」を持っているのは、みえのが、それまでていねいにことばとつきあってきたことの証拠でもあるのだけれど。
 どうしても、私には「掛け算を間違えて殺された」という「比喩」が納得できないのである。どうして「見たこと」を「比喩」にしなかったのだろうか。あるいは「見える」こと、つまり目と関係する「比喩」を書かなかったのだろうか。



少女キキ―詩集 (1963年)
みえの ふみあき
思潮社
コメント
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