詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤健一「粉薬」

2012-05-24 11:02:04 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「粉薬」(「乾河」2012年06月01日発行)

 斎藤健一の詩が好きだ。ことばが放り出される。そして、そこに説明を拒んだ孤独がある。

入江は沈んだ曲線をあらわす。潮の明度。視力はきびし
い思考をつらぬく。黒い髪の毛。白い蝶のような白衣。
つめたい空気である。左右に揺れる連絡船の巨体。ぬれ
ふるえる海面。指の間を風が抜ける。整った外貌の青年。
ぼくは自分の写真を持っていない。バリトンに似る哄笑。
不吉に空が焼けている。くぼむあかるい声だ。耳の奥へ
伝染する静かさ。病者は湾の内側を走る。

 「物語」があるのか、ないのか。たとえば後半。「整った外貌の青年」と湾を見渡せる場所で会う。彼もまた入院中の患者かもしれない。その青年と二言、三言話す。「写真を持っていない?」「ぼくは持っていない」そのあと、ふいに笑いが弾ける。そういう交渉があったのかもしれない。これはかってに読者が「捏造」すればいいのである。
 そうして、捏造した瞬間に、その捏造から離れていく美しいことばに気づく。
 そうして、息を飲む。
 たとえば「耳の奥へ」という「肉体の深み」をつかみとることばに。「へ」の先にある「肉体」に。「へ」の先にあるのは、「こころ」と呼ばれるものかもしれないけれど、そういううるさいことを斎藤は書かない。書かないことで抒情を守る。そこから書かれなかったものの、孤立した美しさがはじまる。
 これは1行目の「沈んだ」にはじまっている。「沈んだ」は目に見える形ではない。目よりももっと肉体に深く関係している「肉眼」にのみ見えるものである。「塩の明度」も同じである。「視力」とは「肉眼」の視力である。
 「ぬれふるえる海面」の「ぬれ」がとてもおもしろいと思う。「濡れていない」海面というのはないだろう。そうすると、この「ぬれ(る)」はいったいどんな「肉体」でつかみとった表現か。わざわざ「ぬれ(る、ている)」といわなければなぜなのか。
 触覚(濡れている、は私は肌で感じる)と視覚(濡れて見える、という表現があるから、目でとらえるということもある)が、出合い、揺れる。
 これがそのまま「指の間を風が抜ける」という触覚(指)を覚醒させる。
 それが、さらに「整った外貌」への、不思議な「触覚」へとつながる。目で「整った」と認めるとき、肉体の奥で指は形をおって動くのである。そこからはじまる「触覚」の世界があるのである。
 病身にとって、自分以外の肉体は、それぞれに健康であり、自分にはない「いのち」を生きていることがはっきりわかるものである。そこに向かってこころが動く。
 その感覚の覚醒が「声(聴覚、耳)」へとさらに輻輳するのは当然のことである。

 もう一篇の「穀食」。

無人の畑がはじまる。女のかがんだ背中。るり色の雲に
降りまいてくる光だ。寒い島のように孤立する。どよめ
く骨のむきだし。ポプラの梢がたわみゆれる。うすぎた
ない陽がもれる。熱烈な信仰に冒されるのだ。桜桃より
も赤い咽。軍服にぴったり付く真昼。

 これは過去の記憶だろうか。「無人の畑がはじまる。女のかがんだ背中。」は矛盾している、破綻しているようにみえる。「無人」なのに、なぜ「女」の背中が畑のなかに見えるのか。女がいるなら「無人」ではない--というのは、強引な言いがかりである。
 誰もいない畑が広がっている。そう思って歩いていたら、実は女がかがんで仕事をしていた。その背中が見えた(背中に気づいた)、ということだろう。
 ひとつの文と次の文の間に「時間」があるのだ。斎藤にとって句点「。」は「時間」そのものをあらわす。「存在」があって、それを「視力」でとらえる。それが「こころ」にまで動いていって、ことばになる。それから、ふたたび肉体が「もの(存在)」にふれるまでの、「間」。それが斎藤にとっての句点「。」である。
 「寒い島のように孤立する。どよめく骨のむきだし。ポプラの梢がたわみゆれる。」の唐突な「骨」の存在。しかも「むきだし」ということばがいっしょにある。それは、ほんとうの「存在(具体物)」なのか、それとも「心象」なのか。
 どちらでもいい。具体物であろうと象徴であろうと、それは「肉体の奥」にまでおりていって、そこから噴出して「ことば」になったものである。--斎藤にとって「時間」とは、ある「もの」が肉体に降りてゆき、噴出してくるまでの往復運動のことかもしれない。
 「時間」が、斎藤のことばを「もの」を「世界」から引き剥がし、孤立させるのかもしれない。その「孤立」は、しかし、孤立に見えるが、よく見ると「肉体の奥(こころ)」とつながっている。「うすぎたない」「熱烈な信仰に冒される」という批判--こういう強靱な批判の力が、斎藤のことばを清潔にしている。
 強靱な精神が世界を「もの」に切断しながら、その切断に接続するかたちで精神が存在する。そいう形の「孤立」。切断以外に接続の方法がないという「孤立」。
 「孤立」としか呼びようのない美しさが、いつも斎藤のことばにはある。

コメント
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