高柳誠『大地の貌、火の声/星辰の歌、血の闇』(2)(書肆山田、2012年04月30日発行)
私は最近アテネへ行ってきた。目的はソクラテスとプラトンの「亡霊」に会うためである。ソクラテスとプラトンは、ことばについて考えるとき、私にとってとても重要な哲学者である。ふたりの「ことば」というよりも、ことばと肉体の関係を考えるとき、とても重要なのである。(というより、もともと私は哲学書を読まないので、「意味」「思想」については、あまり知らない。)
二人の関係でおもしろいのは、ソクラテスは語ったが書かなかった(と思う)。プラトンは書いたが、それはじぶんのことばというよりソクラテスのことばであった。プラトンの「主役」はソクラテスである。
語ることと書くこと。声(音)と文字。その断絶と接続の境目を二人はつくっている。いや、これは二人がつくっているというよりも、プラトンがつくりだしたものであるといえるかもしれない。プラトンが「書く」ということをしなければ、語ることと書くことの境界はできなかったかもしれない。少なくともソクラテスのことばに関しては、プラトンが書かないかぎり、文字としては残らなかった。
そして、私は、ほとんど根拠もなしに書いてしまうのだが、ソクラテスにとっては「ことばは肉体」であった、と思うのである。ことばが肉体であったからこそ、ソクラテスは「弁明」とともに死ななければならなかった。ことばが肉体とは別個なものなら、ことばをことばのまま放棄し、肉体は生き残るという方法がありえた。けれどソクラテスにはそういうことはできなかった。ことば、自分のことばを否定することは、肉体のいのちを否定すること--死と同じであり、ソクラテスは忠実にそれを実践したのである。ソクラテスは「ことば=肉体」という一元論を生きたひとなのである。そして、その実践の方法は「語る」ということであった。
プラトンは、その「ことば=肉体」の関係に「文字(書くこと)」を差し挟み、肉体とは別個にことばの運動をことばの運動として存在させた。そこから「ことばの肉体」というものが新しく生まれてくる。そして、そこから「ことばの自由」というものも生まれてくる。「ことばの本能」というものも生まれてくる。プラトンは、ことばを肉体から解放し、ことばの肉体を発見した(--というのは、まあ、省略が多くて、この文章を読んでいるひとにはなんのことかわからないかもしれないけれど……。)
まあ、そんなようなことを考えるために、その考えをまとめるヒントを掴みたいと考えて私はアテネの街を歩いてみたのだが……、そこで考えたあれこれは、高柳の詩と関係があるようで、ないようで、関係づけて書こうとすれば、とても複雑になるので--と、余分なことばかり書いているのだが……。
高柳の詩がギリシャ悲劇を題材にしていること、私がたまたまアテネへ行ったことが、高柳の詩を読むタイミングと重なったために、ちょっと「前書き」にはならないけれど、前書き風に余分なことを書いてしまった。
今回の高柳の詩で私が気になるのは、高柳がこの詩を上演する役者の肉体とことばの関係をどう考えているのかよくわからない点にある。
別な言い方をすると、高柳の今回の詩は、ギリシャ悲劇のことばを出発点として動きはじめている。それは高柳をくぐりぬけて、高柳のことばになっているのだが、それがそのまま役者のことばになりうるのか--そのことが、というか、そのときの高柳の役者に託した「夢想」のようなものが、よくわからない。(これは高柳の問題ではなく、上演を実践する岡本章の問題なのかもしれないが……。)
高柳の詩(ことば)は、もともと(?)、「肉体のことば」というよりも「ことばの肉体」と言った方がいいものだと思う。私の分類を押し付けてしまうとソクラテスに属するのではなくプラトンに属するものである。すでに存在する「ことば」を引き受け、そのことばを肉体として動かしていく。そこからはじまるのは、あくまでことばの肉体の運動であり、それは人間の肉体を必要とはしていない。高柳のことばを読むためには、ひとりひとりの肉体ではなく、ことばの肉体の蓄積(まあ、読書といえば簡単なのかな?)が必要である。あることばはどのようなことばと響きあいながら音楽をつくり、肉体となるかという「暗黙の了解」、あるいは「共通感覚(と言っていいのかなあ)」のようなものが必要である。
そういうことばを役者の肉体へと投げ込み、ことば→声→音(肉体そのものの響き)へと変えてゆくことが可能なのか。
可能と考えているから岡本章は高柳に「台本」を依頼したのだろうけれど。また、可能と考えたから高柳はその仕事を引き受けたのだろうけれど。
実際の上演を見ていないので、私には、中途半端なことしか言えないけれど、役者の肉体がことばに裏切られて舞台に放り出されるような感じがしてしまうのである。
あるいは。
それが、この「舞台」の狙いかもしれない。
役者(あるいは人間そのもの)の肉体を裏切って、ことばが--書いたことばがではなく、声(音)としてのことばがことばの運動を展開し、それが人間の肉体を死に追い詰めていく。それがギリシャ悲劇そのものの構造である。
「神託」「予言」のことばが人間を動かし、肉体はそれに従い、ことばに裏切られる。いや、そのときことばは完全に実践されるのだが、肉体はそれを苦痛、悲しみで受け止めるしかない。「星辰の歌、血の闇」は「オイディプス」を題材としているが、オイディプスはことばに翻弄され、ことばに裏切られた強靱な肉体の物語である。
こういうことばと肉体の矛盾(ことばによって人間に死がもたらされるという悲劇)を、それでも人間が生きなければならないのはなぜか。
これは、こうやって「文字」で読んでいると、ことばの運動としてそのとおりだと思う。でも、それが舞台で声→音になったとき、どうなるのだろう。そもそも音になれるのか。声になれるのか。やはり「ことば」として、そこにあるだけなのではないだろうか。
まあ、音(声)ではなく、ことばをそこに存在させるのがギリシャ悲劇の本質かもしれない。
アテネの澄み切った空気(ギリシャ悲劇の時代はもっと透明だっただろう)、起伏の多い街の入り組んだ路地を歩いていると、どんなに起伏に富み、入り組んでいてもそこを歩く人間にとって道は一本であり、まっすぐだということがわかるし、そうか、こういう複雑な地形だからこそ、透明でまっすぐなことばの運動を求めたのだということも実感できるのだが(アテネを歩きながら実感したのだが)、
うーん、
これを、いま、この日本で上演するのか。
役者の肉体はもちこたえられるかなあ。
役者の肉体が破壊されてこそ、そこに悲劇が出現するのだけれど、その破壊は簡単であってはならない。肉体の悲鳴が、そのとき劇場をおおわなければならない。
いやあ、むずかしいなあ。
高柳のことばが一方的に勝ってしまいそうである。
私には、高柳のことばが一方的に勝ってしまい、役者が苦悩すらできずに呆然としている姿が見えてしまう。
あ、これって、高柳の詩をほめてるんですけれどね。
ことばの肉体が強靱すぎて(強靱なことばの肉体が高柳の魅力)、それを役者の肉体が壊せるか。壊しながら、逆に肉体が壊されるか。そういう拮抗が「舞台」なのだけれど、
うーん、
舞台を見るよりも、詩集で高柳のことばだけを読んだ方が魅力的、ということになりそ。
何度が登場する、その日本語からかけ離れた音だけが、役者の肉体となって存在するということになるかもしれない。
(舞台を想定せずに、単純に、ことばそのものの詩集として読み直してみる必要があるなあ、と思う。そのとき、また違う感想になると思う。)
私は最近アテネへ行ってきた。目的はソクラテスとプラトンの「亡霊」に会うためである。ソクラテスとプラトンは、ことばについて考えるとき、私にとってとても重要な哲学者である。ふたりの「ことば」というよりも、ことばと肉体の関係を考えるとき、とても重要なのである。(というより、もともと私は哲学書を読まないので、「意味」「思想」については、あまり知らない。)
二人の関係でおもしろいのは、ソクラテスは語ったが書かなかった(と思う)。プラトンは書いたが、それはじぶんのことばというよりソクラテスのことばであった。プラトンの「主役」はソクラテスである。
語ることと書くこと。声(音)と文字。その断絶と接続の境目を二人はつくっている。いや、これは二人がつくっているというよりも、プラトンがつくりだしたものであるといえるかもしれない。プラトンが「書く」ということをしなければ、語ることと書くことの境界はできなかったかもしれない。少なくともソクラテスのことばに関しては、プラトンが書かないかぎり、文字としては残らなかった。
そして、私は、ほとんど根拠もなしに書いてしまうのだが、ソクラテスにとっては「ことばは肉体」であった、と思うのである。ことばが肉体であったからこそ、ソクラテスは「弁明」とともに死ななければならなかった。ことばが肉体とは別個なものなら、ことばをことばのまま放棄し、肉体は生き残るという方法がありえた。けれどソクラテスにはそういうことはできなかった。ことば、自分のことばを否定することは、肉体のいのちを否定すること--死と同じであり、ソクラテスは忠実にそれを実践したのである。ソクラテスは「ことば=肉体」という一元論を生きたひとなのである。そして、その実践の方法は「語る」ということであった。
プラトンは、その「ことば=肉体」の関係に「文字(書くこと)」を差し挟み、肉体とは別個にことばの運動をことばの運動として存在させた。そこから「ことばの肉体」というものが新しく生まれてくる。そして、そこから「ことばの自由」というものも生まれてくる。「ことばの本能」というものも生まれてくる。プラトンは、ことばを肉体から解放し、ことばの肉体を発見した(--というのは、まあ、省略が多くて、この文章を読んでいるひとにはなんのことかわからないかもしれないけれど……。)
まあ、そんなようなことを考えるために、その考えをまとめるヒントを掴みたいと考えて私はアテネの街を歩いてみたのだが……、そこで考えたあれこれは、高柳の詩と関係があるようで、ないようで、関係づけて書こうとすれば、とても複雑になるので--と、余分なことばかり書いているのだが……。
高柳の詩がギリシャ悲劇を題材にしていること、私がたまたまアテネへ行ったことが、高柳の詩を読むタイミングと重なったために、ちょっと「前書き」にはならないけれど、前書き風に余分なことを書いてしまった。
今回の高柳の詩で私が気になるのは、高柳がこの詩を上演する役者の肉体とことばの関係をどう考えているのかよくわからない点にある。
別な言い方をすると、高柳の今回の詩は、ギリシャ悲劇のことばを出発点として動きはじめている。それは高柳をくぐりぬけて、高柳のことばになっているのだが、それがそのまま役者のことばになりうるのか--そのことが、というか、そのときの高柳の役者に託した「夢想」のようなものが、よくわからない。(これは高柳の問題ではなく、上演を実践する岡本章の問題なのかもしれないが……。)
高柳の詩(ことば)は、もともと(?)、「肉体のことば」というよりも「ことばの肉体」と言った方がいいものだと思う。私の分類を押し付けてしまうとソクラテスに属するのではなくプラトンに属するものである。すでに存在する「ことば」を引き受け、そのことばを肉体として動かしていく。そこからはじまるのは、あくまでことばの肉体の運動であり、それは人間の肉体を必要とはしていない。高柳のことばを読むためには、ひとりひとりの肉体ではなく、ことばの肉体の蓄積(まあ、読書といえば簡単なのかな?)が必要である。あることばはどのようなことばと響きあいながら音楽をつくり、肉体となるかという「暗黙の了解」、あるいは「共通感覚(と言っていいのかなあ)」のようなものが必要である。
そういうことばを役者の肉体へと投げ込み、ことば→声→音(肉体そのものの響き)へと変えてゆくことが可能なのか。
可能と考えているから岡本章は高柳に「台本」を依頼したのだろうけれど。また、可能と考えたから高柳はその仕事を引き受けたのだろうけれど。
実際の上演を見ていないので、私には、中途半端なことしか言えないけれど、役者の肉体がことばに裏切られて舞台に放り出されるような感じがしてしまうのである。
あるいは。
それが、この「舞台」の狙いかもしれない。
役者(あるいは人間そのもの)の肉体を裏切って、ことばが--書いたことばがではなく、声(音)としてのことばがことばの運動を展開し、それが人間の肉体を死に追い詰めていく。それがギリシャ悲劇そのものの構造である。
「神託」「予言」のことばが人間を動かし、肉体はそれに従い、ことばに裏切られる。いや、そのときことばは完全に実践されるのだが、肉体はそれを苦痛、悲しみで受け止めるしかない。「星辰の歌、血の闇」は「オイディプス」を題材としているが、オイディプスはことばに翻弄され、ことばに裏切られた強靱な肉体の物語である。
--<(略)今、祖国に戦争が起ころうとしています。それを止めるにはお父様のお力にすがるしかありません。>
--<そんな力など、もはや私にはない。呪われた運命をもつ私のことばなど、誰が聞くと言うのか。>
--<神託がそう告げたのです。>
--<神託など信じぬ。信じたがために私の人生は破綻した。神託は真実を告げるが、それを読み解く力が人間にはないのだ。>
こういうことばと肉体の矛盾(ことばによって人間に死がもたらされるという悲劇)を、それでも人間が生きなければならないのはなぜか。
--<もう、遅い。すべては終わったのだ。私の人生は終わったのだ。>
--<なぜに、そのようなことをおっしゃるのです。>
--<星空のなかの私の星が、そう、命運を告げているのだ…。>
--<神託をお信じにならずに、運命の星をお信じになるのですか。>
--<そうだ。全天体を司っている大きな意思がそう告げている。私は、天空のなかの一粒にすぎない。太古から連綿と続く、この大きな星たちの運行のなかに、私も組み入れられているのだ。>
これは、こうやって「文字」で読んでいると、ことばの運動としてそのとおりだと思う。でも、それが舞台で声→音になったとき、どうなるのだろう。そもそも音になれるのか。声になれるのか。やはり「ことば」として、そこにあるだけなのではないだろうか。
まあ、音(声)ではなく、ことばをそこに存在させるのがギリシャ悲劇の本質かもしれない。
アテネの澄み切った空気(ギリシャ悲劇の時代はもっと透明だっただろう)、起伏の多い街の入り組んだ路地を歩いていると、どんなに起伏に富み、入り組んでいてもそこを歩く人間にとって道は一本であり、まっすぐだということがわかるし、そうか、こういう複雑な地形だからこそ、透明でまっすぐなことばの運動を求めたのだということも実感できるのだが(アテネを歩きながら実感したのだが)、
うーん、
これを、いま、この日本で上演するのか。
役者の肉体はもちこたえられるかなあ。
役者の肉体が破壊されてこそ、そこに悲劇が出現するのだけれど、その破壊は簡単であってはならない。肉体の悲鳴が、そのとき劇場をおおわなければならない。
いやあ、むずかしいなあ。
高柳のことばが一方的に勝ってしまいそうである。
私には、高柳のことばが一方的に勝ってしまい、役者が苦悩すらできずに呆然としている姿が見えてしまう。
あ、これって、高柳の詩をほめてるんですけれどね。
ことばの肉体が強靱すぎて(強靱なことばの肉体が高柳の魅力)、それを役者の肉体が壊せるか。壊しながら、逆に肉体が壊されるか。そういう拮抗が「舞台」なのだけれど、
うーん、
舞台を見るよりも、詩集で高柳のことばだけを読んだ方が魅力的、ということになりそ。
リー、リー、リー、リー、リー、
ルー、ルー、ルー、ルー、ルー、
何度が登場する、その日本語からかけ離れた音だけが、役者の肉体となって存在するということになるかもしれない。
(舞台を想定せずに、単純に、ことばそのものの詩集として読み直してみる必要があるなあ、と思う。そのとき、また違う感想になると思う。)
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