唐組第49回公演「海星」(2012年05月27日、雑司ヶ谷・鬼子母神)
作・演出 唐十郎、 出演 稲荷卓央、土屋真衣、赤松由美、大美穂、久保井研
役者は声が勝負である。そのことを実感した。
私が見た「海星」は、限りなく退屈だった。稲荷卓央、土屋真衣、赤松由美らの声がつまらない。声が出ていない。
芝居は舞台と観客席との二つから成り立っている。舞台の上には役者の肉体がある。その役者の肉体は、役者から観客にふれてくることは滅多にない。ときどき舞台から降りて観客に触るというような演出もあるだろうが、基本的に舞台の上にある。その舞台の役者の肉体に、観客は自分の目で触れる。役者が接近するのではなく、観客が接近するのである。
ところが声はまったく逆である。観客はときには「久保井!」と声をかけることはあるがこれはまれ。基本的には役者が台詞をしゃべり、その声が観客の肉体(耳)に触れる。舞台から観客席に声は乱入するのである。そして観客の耳に触りまくるのである。
芝居が「一声、二顔、三姿」と言われるのは、声だけがそういう「特権」をもっているがゆえのことに由来すると思う。声は「肉体」をはみ出し、空間を占有することができるのである。そして観客をつつみこむことができるのである。
そしてそのとき、声は肉体そのものである。
今回の公演では、そういう声が存在しなかった。だから芝居はすべて舞台の上で完結している。(最後に、例のごとくテントの背景が開き、役者は現実の世界へと動いていくのだが……。)それが非常につまらないのである。
だいたい唐の芝居・戯曲というのは、ことばがあふれている。今回の「海星」は「鐘ヶ淵」という地名から鐘が沈んだ淵、なぜそんなところに鐘があるか。何のためにあるのか。どんな音を鳴らすのか。--そういうことに関する、あれこれの「思い」の反乱をことばにしたものである。
ことばは、普通は、ことばにならずに肉体のなかにあることが多い。思いは思いとしてあるのだが、なかなかことばにならない。そのことばにならないものを、唐の脚本はつぎつぎにことばにしてしまう。そのとき(脚本を読むとき、という意味だが)、ことばは肉体を突き破ってどこかへ行きたがっている。自分の肉体を突き破って、他人の肉体にまで侵入したがっているということがよくわかる。
ことばは、ことばとてし発せられるだけではダメなのだ。声になって他人の肉体に侵入し、他人の肉体のなかを駆け抜け、他人の肉体を自分の肉体にしてしまう。そこまで行って、ことばははじめてことばになる。
他人のことばを引き継ぎ、そこから自分のことばを語りはじめるということが、唐の登場人物たちにはしばしばあるが、それは役者同士のなかで、ことばが声になり、他人の肉体に入りこみ、そこから他人の肉体を生きるということの「実践」なのだが、その緊張した呼吸が今回の芝居では欠けている。
役者の声は観客に届かないばかりか、そこで演じている役者同士の間でも届いていない。声が出ていない。声が役者のなににとじこもったまま、とじこめられたままなのである。
最後の方に稲荷卓央のストリップというサービスがあるのだが、声が出ないのだから、もちろん性器も出はしない。声が出ていれば、つまり声が客の肉体に触れていれば、性器が丸出しになっていたって平気である。性器ではひとりとしかセックスできないが、声でなら何人とも同時にセックスできる。だれも性器なんかは気にしない。声が出ていないから、性器を隠すのだ。隠さないと、そこに観客の視線が触れてくるからだ。
芝居は見せ物である。見せ物というのは客が役者の肉体を存分にみつめることができるという意味ともとれるが、ほんとうは見せるふりをして、役者が客の欲望に触れて、それを目覚めさせ、暴走させる装置である。
役者はまず声を鍛えてもらいたい。
作・演出 唐十郎、 出演 稲荷卓央、土屋真衣、赤松由美、大美穂、久保井研
役者は声が勝負である。そのことを実感した。
私が見た「海星」は、限りなく退屈だった。稲荷卓央、土屋真衣、赤松由美らの声がつまらない。声が出ていない。
芝居は舞台と観客席との二つから成り立っている。舞台の上には役者の肉体がある。その役者の肉体は、役者から観客にふれてくることは滅多にない。ときどき舞台から降りて観客に触るというような演出もあるだろうが、基本的に舞台の上にある。その舞台の役者の肉体に、観客は自分の目で触れる。役者が接近するのではなく、観客が接近するのである。
ところが声はまったく逆である。観客はときには「久保井!」と声をかけることはあるがこれはまれ。基本的には役者が台詞をしゃべり、その声が観客の肉体(耳)に触れる。舞台から観客席に声は乱入するのである。そして観客の耳に触りまくるのである。
芝居が「一声、二顔、三姿」と言われるのは、声だけがそういう「特権」をもっているがゆえのことに由来すると思う。声は「肉体」をはみ出し、空間を占有することができるのである。そして観客をつつみこむことができるのである。
そしてそのとき、声は肉体そのものである。
今回の公演では、そういう声が存在しなかった。だから芝居はすべて舞台の上で完結している。(最後に、例のごとくテントの背景が開き、役者は現実の世界へと動いていくのだが……。)それが非常につまらないのである。
だいたい唐の芝居・戯曲というのは、ことばがあふれている。今回の「海星」は「鐘ヶ淵」という地名から鐘が沈んだ淵、なぜそんなところに鐘があるか。何のためにあるのか。どんな音を鳴らすのか。--そういうことに関する、あれこれの「思い」の反乱をことばにしたものである。
ことばは、普通は、ことばにならずに肉体のなかにあることが多い。思いは思いとしてあるのだが、なかなかことばにならない。そのことばにならないものを、唐の脚本はつぎつぎにことばにしてしまう。そのとき(脚本を読むとき、という意味だが)、ことばは肉体を突き破ってどこかへ行きたがっている。自分の肉体を突き破って、他人の肉体にまで侵入したがっているということがよくわかる。
ことばは、ことばとてし発せられるだけではダメなのだ。声になって他人の肉体に侵入し、他人の肉体のなかを駆け抜け、他人の肉体を自分の肉体にしてしまう。そこまで行って、ことばははじめてことばになる。
他人のことばを引き継ぎ、そこから自分のことばを語りはじめるということが、唐の登場人物たちにはしばしばあるが、それは役者同士のなかで、ことばが声になり、他人の肉体に入りこみ、そこから他人の肉体を生きるということの「実践」なのだが、その緊張した呼吸が今回の芝居では欠けている。
役者の声は観客に届かないばかりか、そこで演じている役者同士の間でも届いていない。声が出ていない。声が役者のなににとじこもったまま、とじこめられたままなのである。
最後の方に稲荷卓央のストリップというサービスがあるのだが、声が出ないのだから、もちろん性器も出はしない。声が出ていれば、つまり声が客の肉体に触れていれば、性器が丸出しになっていたって平気である。性器ではひとりとしかセックスできないが、声でなら何人とも同時にセックスできる。だれも性器なんかは気にしない。声が出ていないから、性器を隠すのだ。隠さないと、そこに観客の視線が触れてくるからだ。
芝居は見せ物である。見せ物というのは客が役者の肉体を存分にみつめることができるという意味ともとれるが、ほんとうは見せるふりをして、役者が客の欲望に触れて、それを目覚めさせ、暴走させる装置である。
役者はまず声を鍛えてもらいたい。
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