監督 ウディ・アレン 出演 オーエン・ウィルソン、マリオン・コティヤール、レイチェル・マクアダムス、
アメリカではウディ・アレンの映画としては最大のヒットというのだけれど、なぜ?
スノッブ(?)なところが受けた?
どうにもわからないのが、登場してくる1920年代の芸術家たちに対するウディ・アレンの評価。ウディ・アレンって、ヘミングウェイが好き? ピカソが好き? エリオットが好き? ガートルート・スタインが好き?
うーん。
私はガートルード・スタインはいい翻訳と出合わなかったのか、文体がなじめなくて感想をもつほど読んでいないし、覚えてもいないので、よくわからない。ヘミングウェイ、まあ、嫌いではない。ピカソは夢中である。エリオットも好きである。でも、ピカソに夢中のとき、ヘミングウェイ、エリオットのことばを読むかというと、違うなあ。
私の「肉体」のなかでは、瞬間瞬間にヘミングウェイがいて、ピカソがいて、エリオットがいるという状態はあっても、3人が共存するということはない。
だから、ここで展開する1920年代に主人公が夢中になるときの、その夢中の感じがどうもしっくりこない。
ウディ・アレンは1920年代をだしににしている。ほんとうに描きたいのは1920年代のいきいきとしたパリでもなければ、そこに集った芸術家たちでもない。
マリオン・コティヤール、レイチェル・マクアダムス、それから私の知らない古いレコード店の店員を演じた女優の間で揺れ動く男、その男に対する女の変容を描きたがっただけだね。マッチョな芸術家の間で官能的に、けれどもどこかで寂しさを内に秘めて生きているマリオン・コティヤール(このひと、いったい誰を演じていた? 実在の人物じゃないよね)、清純に見えて浮気を平気でしているレイチェル・マクアダムス、セックスの匂いはしないけれど趣味が合うレコード店の店員。--そのなかで最後にレコード店の店員を選ぶのは、ウディ・アレンにとって一番大事なのは「趣味」があうということなのかな? セックスも大事だけれど、セックスだけでは長続きしない。「趣味」があって、いっしょに「場」を共有することがウディ・アレンにとっては「愛」なんだねえ。
で、その「場」には、1920年代のパリの、いろんな才能がひしめき合う「場」も含まれているってことなんだろうなあ。いろんな人物が、それなりにそっくりさんを演じていて、なかなか笑えるけれど、結局映画では、オーエン・ウィルソンとレコード店店員の「愛」のための「背景」に過ぎないからね。
最初の方に、「教養人」をオーエン・ウィルソンが毛嫌いするシーンがあるけれど、さーっとなぞった1920年代の登場人物、そのやりとりに笑ったり、へぇー、そうなんだと思ったりするなんて、それこそスノッブだねえ。ウディ・アレンはこの映画をヒットさせたアメリカの「教養」そのものを笑っているのかもしれないなあ。そうだとしたら、この映画がアメリカでヒットしたというのは、とっても皮肉だね。アメリカ人って、笑われるのが好き? それとも、それに気がつかないノーテンキな人間の集団?
でも、まあ、えっ、これがパリ? といいたくなるくらい、風景を厳選してしまうウディ・アレンの頑固さには感動したなあ。あの、ルーブルのガラスのピラミッドさえクラシックに見える。石畳も雨も、たしかに美しい。舗道と狭い路地が美しい。時間を潜り抜けて呼吸している感じが、実に美しい。時間そのものを呼吸しているという感じが、非常に美しい。(で、ここでもう一度書いておくと、ヘミングウェイをはじめとする登場人物たちには、風景に比べると、時間を生きている、時間を呼吸しているという感じが、いまひとつ充実していない。紙芝居みたいなのだ。--だから、スノップという。)
オーエン・ウィルソンがルイス・ブニエルに『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(だろうなあ)の映画のヒントを与えたというのも、たのしい。実はこのシーンが一番好きなのだ。ブニエルが「わけがわからん」という顔をする。これって、結局、ウディ・アレンはブニエルの映画を「あんた、ほんとうにわかってつくっているの?」と疑問に思っているということだよね。そして、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』にアカデミー賞を与えたアメリカ映画界をも皮肉っているというこなんだろうなあ。
アメリカではウディ・アレンの映画としては最大のヒットというのだけれど、なぜ?
スノッブ(?)なところが受けた?
どうにもわからないのが、登場してくる1920年代の芸術家たちに対するウディ・アレンの評価。ウディ・アレンって、ヘミングウェイが好き? ピカソが好き? エリオットが好き? ガートルート・スタインが好き?
うーん。
私はガートルード・スタインはいい翻訳と出合わなかったのか、文体がなじめなくて感想をもつほど読んでいないし、覚えてもいないので、よくわからない。ヘミングウェイ、まあ、嫌いではない。ピカソは夢中である。エリオットも好きである。でも、ピカソに夢中のとき、ヘミングウェイ、エリオットのことばを読むかというと、違うなあ。
私の「肉体」のなかでは、瞬間瞬間にヘミングウェイがいて、ピカソがいて、エリオットがいるという状態はあっても、3人が共存するということはない。
だから、ここで展開する1920年代に主人公が夢中になるときの、その夢中の感じがどうもしっくりこない。
ウディ・アレンは1920年代をだしににしている。ほんとうに描きたいのは1920年代のいきいきとしたパリでもなければ、そこに集った芸術家たちでもない。
マリオン・コティヤール、レイチェル・マクアダムス、それから私の知らない古いレコード店の店員を演じた女優の間で揺れ動く男、その男に対する女の変容を描きたがっただけだね。マッチョな芸術家の間で官能的に、けれどもどこかで寂しさを内に秘めて生きているマリオン・コティヤール(このひと、いったい誰を演じていた? 実在の人物じゃないよね)、清純に見えて浮気を平気でしているレイチェル・マクアダムス、セックスの匂いはしないけれど趣味が合うレコード店の店員。--そのなかで最後にレコード店の店員を選ぶのは、ウディ・アレンにとって一番大事なのは「趣味」があうということなのかな? セックスも大事だけれど、セックスだけでは長続きしない。「趣味」があって、いっしょに「場」を共有することがウディ・アレンにとっては「愛」なんだねえ。
で、その「場」には、1920年代のパリの、いろんな才能がひしめき合う「場」も含まれているってことなんだろうなあ。いろんな人物が、それなりにそっくりさんを演じていて、なかなか笑えるけれど、結局映画では、オーエン・ウィルソンとレコード店店員の「愛」のための「背景」に過ぎないからね。
最初の方に、「教養人」をオーエン・ウィルソンが毛嫌いするシーンがあるけれど、さーっとなぞった1920年代の登場人物、そのやりとりに笑ったり、へぇー、そうなんだと思ったりするなんて、それこそスノッブだねえ。ウディ・アレンはこの映画をヒットさせたアメリカの「教養」そのものを笑っているのかもしれないなあ。そうだとしたら、この映画がアメリカでヒットしたというのは、とっても皮肉だね。アメリカ人って、笑われるのが好き? それとも、それに気がつかないノーテンキな人間の集団?
でも、まあ、えっ、これがパリ? といいたくなるくらい、風景を厳選してしまうウディ・アレンの頑固さには感動したなあ。あの、ルーブルのガラスのピラミッドさえクラシックに見える。石畳も雨も、たしかに美しい。舗道と狭い路地が美しい。時間を潜り抜けて呼吸している感じが、実に美しい。時間そのものを呼吸しているという感じが、非常に美しい。(で、ここでもう一度書いておくと、ヘミングウェイをはじめとする登場人物たちには、風景に比べると、時間を生きている、時間を呼吸しているという感じが、いまひとつ充実していない。紙芝居みたいなのだ。--だから、スノップという。)
オーエン・ウィルソンがルイス・ブニエルに『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(だろうなあ)の映画のヒントを与えたというのも、たのしい。実はこのシーンが一番好きなのだ。ブニエルが「わけがわからん」という顔をする。これって、結局、ウディ・アレンはブニエルの映画を「あんた、ほんとうにわかってつくっているの?」と疑問に思っているということだよね。そして、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』にアカデミー賞を与えたアメリカ映画界をも皮肉っているというこなんだろうなあ。
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