北川透「わが循環器 六片」(「耳空」8、2012年05月15日発行)
北川透「わが循環器 六片」のうちの「捨聖」がおもしろかった。「捨聖」を何と読むか、知らない。そういうことばがあるかどうかも知らない。わからないまま読むと、ふいに、「しゃせい」という音がからだのなかから響いてくる。「射精」という文字が浮かんでくる。「捨聖」は「聖なるものを捨てること」つまり俗に染まり(セックスに染まり)「射精」に至ること、と思ってしまう。そまり
とぎれとぎれのことばが、セックスのあえぎのようだ。呼吸の乱れ。乱れることのうれしさのようなものがある。「死ぬ時 ヲね しばし バ 予告 してね」は「いく時はかってにいかないで、ちゃんと言ってね」と言っているように思える。
このには「菅谷規矩男 一九八九年十二月二十八日、肝硬変症にて死す。」というサブタイトルがついているから、「おい、菅谷、死ぬ時は勝手に死ぬな、予告くらいしろよ」という慟哭が含まれているかもしれない。それを、私のように「射精」と結びつけて読むのは、ある意味では不謹慎なことかもしれない。
けれども、私は「不謹慎」でありたいのだ。
だいたい友情というようなもの、親密な人間関係というものは不謹慎なものである。親しさを武器にして、他人を排除するようなことがある。自分たちのよろこびを実現するために他人を排除するようなものを含んでいるものである。
それがセックスに似ている。
セックスに似ているから、人間を生まれ変わらせることができる。
「ウエヌ スの丘」--ええっと、これはなんだっけ。聞いたことがあるけれど……、いわゆる「土手」だよね。「ウエヌスの丘」と「土手」とどっちが「俗」なことばかわからないけれど、私は、ええっとなんだっけと思いながら読み進み「サ割り」で、あ、「土手」だと思ったのだった。「サ割り」は「触り」だし、「割り」は「ワレメ」だからね。
と思っていたら、もうセックスそのものになってしまう。
「夢で」が妙にロマンチックでいやだなあと思うけれど、これって「ウエヌスの丘」という気障(?)な言い方に通じるねえ。(こういうところに北川の「ことばの肉体」のかなでる通奏低音があるのかもしれないなあ。)
「雫石」が私にはよくわからない。「雫石」ということばでは私は飛行機事故を思い出してしまうのだけれど--あの日(あの日の朝、大学一年生で帰省した翌朝だったと思う)、私はヒトが大量に空から降ってくる夢を見た。そういう夢を見るのが初めてだったので忘れることができないのだけれど。--その死を、この詩に結びつけるのもなんとなく「不謹慎」ではあると思うのだけれど、人間の意識というのは「良識」とは無関係に動くものだから、私はその「無関係に動く何か」を、そのまま書いておく。
「雫石」は死のイメージをひきずりながら「雫ポッ」と単独になってしまうと、また「射精」、「精液の雫」へと変わる。私はどこまでもスケベな感じで北川の詩を読みたいのだなあ、と自分のことながらあきれてしまうのだが。
「見せ(る)」「ショー」とつながると、どうしても、「見せるわけでしょう」という推量の文章ではなく、「実演ショー」になる。それ以外に読みようがない。「瞬 カン」ということばの分断と接続の感じ、そして、そのあとに続く次の行(ことば)、
これが「実演ショー」を後押しする。「ケケケ(笑い)、レレレ(驚き)、あれあれ(ひやかし)、ややや(あきれ)」と、北川の書いていないことばを私はかってに補って「ショー」の観客になる。「興ギョウ」は「興行」である。
詩人の「興行」といえば「朗読会」になるのだろうけれど、「ロウ」「シミ」とことばがぶつけられれば、スケベな私は「ろうそくショー」を思い浮かべる。
「シミ」はろうそくの垂れた雫か、はたまたは「射精」のしみか。
まあ、「詩の朗読会」というのは「ひとりストリップショー」のようなものだから、どっちでもいいね。
と、こんなことを書いてると、これが詩の感想? という気持ちにならないでもないのだけれど--詩の感想だね。
思ったことはかえようがない。
ことばに誘われて、余分なことを感じてしまう。考えてしまう。妄想してしまう。その逸脱の瞬間が、私にとっては詩である。
でも。(???)
北川のためにつけくわえておくと、私はセックス(射精)のことだけを思ったのではない。
「打 楽する」は「堕落」を呼び込むが、それを破壊するようにして「打楽器」をも呼び込む。弾ける音、リズム。そのなかで、ことばが一瞬一瞬、意味を超えて(意味を破壊しながら)、輝く。「ウイルスちゃん」のような「新しい詩」をも抱き込みながら、ことばがことば自身を「よろこぶ」瞬間にまで解放していく--これが詩なんだねえ。
「捨聖」→「聖なることを捨てる」→「射精」というスケベ心をくすぐるように動くことばを読んでいる(読まされている?)と、知らないうちに、ことばそのものの自在な音楽にのみこまれてしまっている。その楽しい音に酔っている。酔わされていることに気がつく。
俗なことを連想させながら、そうではないものにまでひっぱっていってしまう。このことばのスピード。広がり。いいなあ。
北川透「わが循環器 六片」のうちの「捨聖」がおもしろかった。「捨聖」を何と読むか、知らない。そういうことばがあるかどうかも知らない。わからないまま読むと、ふいに、「しゃせい」という音がからだのなかから響いてくる。「射精」という文字が浮かんでくる。「捨聖」は「聖なるものを捨てること」つまり俗に染まり(セックスに染まり)「射精」に至ること、と思ってしまう。そまり
じぶんのシ 死ぬ時 ヲね しばし バ 予告 してね
ウエヌ スの丘 夢で サ割り 雫石 の雫ポッ たりす る瞬
カンをね ヒトに見せ るワケで ショー
とぎれとぎれのことばが、セックスのあえぎのようだ。呼吸の乱れ。乱れることのうれしさのようなものがある。「死ぬ時 ヲね しばし バ 予告 してね」は「いく時はかってにいかないで、ちゃんと言ってね」と言っているように思える。
このには「菅谷規矩男 一九八九年十二月二十八日、肝硬変症にて死す。」というサブタイトルがついているから、「おい、菅谷、死ぬ時は勝手に死ぬな、予告くらいしろよ」という慟哭が含まれているかもしれない。それを、私のように「射精」と結びつけて読むのは、ある意味では不謹慎なことかもしれない。
けれども、私は「不謹慎」でありたいのだ。
だいたい友情というようなもの、親密な人間関係というものは不謹慎なものである。親しさを武器にして、他人を排除するようなことがある。自分たちのよろこびを実現するために他人を排除するようなものを含んでいるものである。
それがセックスに似ている。
セックスに似ているから、人間を生まれ変わらせることができる。
「ウエヌ スの丘」--ええっと、これはなんだっけ。聞いたことがあるけれど……、いわゆる「土手」だよね。「ウエヌスの丘」と「土手」とどっちが「俗」なことばかわからないけれど、私は、ええっとなんだっけと思いながら読み進み「サ割り」で、あ、「土手」だと思ったのだった。「サ割り」は「触り」だし、「割り」は「ワレメ」だからね。
と思っていたら、もうセックスそのものになってしまう。
「夢で」が妙にロマンチックでいやだなあと思うけれど、これって「ウエヌスの丘」という気障(?)な言い方に通じるねえ。(こういうところに北川の「ことばの肉体」のかなでる通奏低音があるのかもしれないなあ。)
「雫石」が私にはよくわからない。「雫石」ということばでは私は飛行機事故を思い出してしまうのだけれど--あの日(あの日の朝、大学一年生で帰省した翌朝だったと思う)、私はヒトが大量に空から降ってくる夢を見た。そういう夢を見るのが初めてだったので忘れることができないのだけれど。--その死を、この詩に結びつけるのもなんとなく「不謹慎」ではあると思うのだけれど、人間の意識というのは「良識」とは無関係に動くものだから、私はその「無関係に動く何か」を、そのまま書いておく。
「雫石」は死のイメージをひきずりながら「雫ポッ」と単独になってしまうと、また「射精」、「精液の雫」へと変わる。私はどこまでもスケベな感じで北川の詩を読みたいのだなあ、と自分のことながらあきれてしまうのだが。
ウエヌ スの丘 夢で サ割り 雫石 の雫ポッ たりす る瞬
カンをね ヒトに見せ るワケで ショー
「見せ(る)」「ショー」とつながると、どうしても、「見せるわけでしょう」という推量の文章ではなく、「実演ショー」になる。それ以外に読みようがない。「瞬 カン」ということばの分断と接続の感じ、そして、そのあとに続く次の行(ことば)、
雫 のポッタリ ケケ レ あれ やや矢 を興ギョウする
スルスル ロウ 読会で死 シミ ミ せるというか
これが「実演ショー」を後押しする。「ケケケ(笑い)、レレレ(驚き)、あれあれ(ひやかし)、ややや(あきれ)」と、北川の書いていないことばを私はかってに補って「ショー」の観客になる。「興ギョウ」は「興行」である。
詩人の「興行」といえば「朗読会」になるのだろうけれど、「ロウ」「シミ」とことばがぶつけられれば、スケベな私は「ろうそくショー」を思い浮かべる。
「シミ」はろうそくの垂れた雫か、はたまたは「射精」のしみか。
まあ、「詩の朗読会」というのは「ひとりストリップショー」のようなものだから、どっちでもいいね。
と、こんなことを書いてると、これが詩の感想? という気持ちにならないでもないのだけれど--詩の感想だね。
思ったことはかえようがない。
ことばに誘われて、余分なことを感じてしまう。考えてしまう。妄想してしまう。その逸脱の瞬間が、私にとっては詩である。
でも。(???)
北川のためにつけくわえておくと、私はセックス(射精)のことだけを思ったのではない。
キ カセ ットスルと いうか 仕手イルウ イルスに
羊歯 いに 石に化け ていくマツ 路が ユー チューブ
ラリンの動 ガでミ られル ルル 八雲た チイ チイ
チ イ イ ずもタつ 生ゴミは月と木 古詩は水 ダ
打 楽するよ ロ コビににっち モさ っちも ゆか啼く無く
啼くホット ケーキケー キョキャ K音 チを ハき
時鳥 アカトキ裂きて 寝覚めかな
「打 楽する」は「堕落」を呼び込むが、それを破壊するようにして「打楽器」をも呼び込む。弾ける音、リズム。そのなかで、ことばが一瞬一瞬、意味を超えて(意味を破壊しながら)、輝く。「ウイルスちゃん」のような「新しい詩」をも抱き込みながら、ことばがことば自身を「よろこぶ」瞬間にまで解放していく--これが詩なんだねえ。
「捨聖」→「聖なることを捨てる」→「射精」というスケベ心をくすぐるように動くことばを読んでいる(読まされている?)と、知らないうちに、ことばそのものの自在な音楽にのみこまれてしまっている。その楽しい音に酔っている。酔わされていることに気がつく。
俗なことを連想させながら、そうではないものにまでひっぱっていってしまう。このことばのスピード。広がり。いいなあ。
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