詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩尾忍「間で」

2012-05-31 10:48:43 | 詩(雑誌・同人誌)
岩尾忍「間で」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 岩尾忍「間で」は「私」というものの存在を信じていない。しかし信じていなくても「私」は存在してしまう。

私などいくらでもいる
どこにでも
たとえば
私がいまもたれている壁の
こっちと

あっちと
どっちだかよくわからない
ここにまでいるらしい 手で
両目をかくしてやって
ほら
あれが私だ と
むこうから声をかけると

 「壁」がある。この「壁」は「私」よりもたしかなものである。たしかであるから、それに「もたれる」ことができる。そのとき、「壁」をはさんで、「こっち」と「あっち」ができる。「あっち」は「壁の裏側」と考えることができる。でも、そうではなく、つまり「壁の裏側(もたれている壁の背後)」ではなく、目の前のどこかかもしれない。つまり「向こう」。壁の背後を気にしないで、壁にもたれて、前に広がる空間を見ているということかもしれない。
 「壁」はたしかでも、そして「壁にもたれている私」の「こっち」というのは「私」とともにあってたしかにあるように見えるけれど、「あっち」というのはあいまいになる。「あっち」って「どっち?」。「どっちだかよくわからない」。
 そして「あっち」が「どっちだからわからない」ということが、「私」に影響してくる。なぜ「こっち(ここ)」だけがたしかなのだろう。「あっち」を「こっち(ここ)」と想定し、その「あっち」から「こっち」をみつめ、「あれが(壁にもたれている人間が)私だ」ということができる。そのとき、それでは、そういうことを「想定した私」は、実際はどこにいる。
 めんどうくさいね。こういうことを正確に考えようとするのは。そして、それを正確に書こうとするのは。だから、省略。
 違う視点から岩尾の詩を読んでみる。違う視点というと、まあ、変になるかなあ……。

 引用した部分で私がおもしろいと思ったのは、書かれている「こっち」「あっち」「どっち」「むこう」のほかに、とういうか、それよりも、ほんとうはこれから書くこと。今までは、一種の「前書き」「前触れ」。

ここにまでいるらしい 手で

 この一行。
 なぜ、突然「手」? 「手」は何とつながっている? 「ここにまでいるらしい」の「主語」は「私」だね。「手」が「ここにまでいるらしい」の主語ではないよね。でも、あたかも主語であるかのように、つまり「倒置法」のように書かれている。
 いや、この「手」は次の

両目でかくしてやって

 につながっていくのであって、倒置法ではない--という見方かあると思う。たしかに文法的にはそうなのだけれど、詩は文法とは違うからね。文法を逸脱していくとき、つまりそれまでのことばのつかい方では表現できないものを表現するとき(表現したとき)、そこに詩があらわれるものだからね。
 倒置法に見える「ここにまでいるらしい 手で」の一行。ここには何が省略されているのだろうか。「私」がまず省略されている。
 「ここにまでいるらしい私」--これが一般的な倒置法。
 そのあとの1字あき、空白。ここに何が隠されている。「私の」が省略されている。

ここにまでいるらしい私 その私の手で

 こう書くと「私」が重なりうるさい。そして、うるさいだけではなく、何かが違う。ことばのスピード。間延びする。ほんとうはもっと違う形の表現が省略されたものなのだ。では、それは何?
 ちょっといいかげんに、というか、ちょっと強引に書いてしまうと、

ここにまでいるらしい私という肉体 その私の肉体の具体的な部位である手で

 ということになる。「私」は抽象的な概念ではなく「肉体」である。
 これは、「私などいくらでもいる」という書き出しの1行目と矛盾するね。1行目の「私」はどうしたって「抽象的・概念的」である。逆説的な証明になるが、具体的な肉体をもった私とという存在は、「いま/ここ」に固有の存在でしかありえない。「いくらでもいる」とは言えない。
 それなのに「手」という「肉体」が突然出てきて、それまでのことばを突き動かす。ここが非常におもしろい。「私」は「肉体」である。だからこそ、次の行に、

両目をかくしてやって

 という、「両目」という「肉体」が出てくる。「私」はつねに「肉体」なのだ。
 さらにおもしろいのは、「肉体」なのだけれど、その「肉体」を否定する。「目」は肉体のなかでは「見る」という働きをする。その「両目」を隠すと、目は何も見えない。つまり、そのとき「目」は存在しながら、存在しない。そうして、そういう矛盾を、「私」と「私の肉体である手」でやっている。
 「私」と「意識」の「間」に「肉体」が関与する。それは何かを確認するだけではなく、何かを隠蔽するということをとおして、意識を動かす。
 そのときの「私」って何?

影が
私の手の影が 手で
赤ん坊の足首を握って
頭を床にたたきつけました あるいは

赤ん坊の足首を握って
頭を床にたたきつけました と手が
私が
今ここに書きました
その両側の影

 「影」とは何だろう。「意識」かな? あ、これも面倒だから省略するね。
 この2連でも「手」が重要な働きをしている。

私の手の影が 手で
赤ん坊の足首を握って

赤ん坊の足首を握って
頭を床にたたきつけました と手が
私が
今ここに書きました

 このふたつの「手」は同一ではない。同一ではないけれど、同じ「手」ということばになっている。
 ここにある矛盾。
 その矛盾を「私が」と言い換えることで、岩尾はことばを「流通言語」から引き剥がし、詩にする。

 (時間がないので--私は目の状態が悪く、一回に書ける時間が限られているので、途中を大幅に省略して書いてしまうが)

 この岩尾の書いている「私」の「矛盾」--それを「矛盾」ではなくくするものが、「肉体」のほかにもうひとつある。

頭を床にたたきつけました あるいは

 この「あるいは」。「あるいは」というのは「存在(もの)」ではないね。肉体ではないね。では何? 意識、なのか。でも「あるいは」には「意識」というときに私たちが思い浮かべる内容がない。
 ここで、私の現代詩講座では受講生に質問する。

質問 あるいは、の意味はわかりますか?

答え わかります。

質問 では、「あるいは」の意味を別のことばで言い換えてください。
   詩のなかになければ、自分自身のことばで言い換えてください。
   あるいは、をどう言い換えることができますか?

 きっとみんな困惑する。「あるいは、って、あるいはでしょ?」言い換えがないでしょ?
 わかっているのに、言い換えることができない。
 そういうことばはたくさんある。
 そして、その言い換えのできないことばのなかに、実は、書いた人の「思想」がある。「肉体」がある。

 岩尾は「あるいは」ということばで何をしているのか--そういう点からことばを見つめなおすといい。
 岩尾は「あるいは」ということばで、いま書いたことを見つめなおしている。書き直すことで何か違ったものが出てこないか確かめようとしている。
 「あるいは」は、ことばを突き動かす「エネルギー」そのものである。「意味」ではなく、ことばを動かすための力。
 あるいは、とこの詩のなかでは、いま引用した部分にしかないのだが、ほんとうは隠れてほかにも存在している。たとえば1連目と2連目。

私などいくらでもいる
どこにでも
たとえば
私がいまもたれている壁の
こっちと
(あるいは)
あっちと
どっちだかよくわからない
ここにまでいるらしい 手で
両目をかくしてやって
ほら
あれが私だ と
むこうから声をかけると

 「こっち」あるいは「あっち」、えっ、「どっち」。うーん、あるいは「ここ」じゃなくて、あるいは「あれ」、あるいは「むこう」。
 いろいろなことが「あるいは」によって動いていく。「あるいは」が世界のなかに「間」を押し広げる。
 詩のタイトルは「間で」とあるのだが、この「間」というのは「あるいは」ということばがつくりだす間である。
 その間を、岩尾は「意識」だけではなく「手」という身近な肉体と関係づけるようにして動かす。「私」は「意識」であるが、その「私」は「肉体」として存在する。私は「意識」あるいは「肉体」である--というのが、岩尾のことばの基本なのだろうなあ。
 「私」は「意識」と「肉体」である、と二元論で言わないところに、岩尾の思想の根幹がある。



箱―岩尾忍詩集
岩尾 忍
ふらんす堂
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