豊原清明「まゆこ人形」(「白黒目」35、2012年05月発行)
豊原清明「まゆこ人形」は自主製作映画のシナリオ。
時間の交錯がおもしろい。場の交錯がおもしろい。「まゆこ人形」を動かしてコマ撮りをする。そのとき、そこには「まゆこ人形」の「物語(時間、場)」が生まれる。そして、そのときその時空間といっしょに「僕」の時間・空間もある。「まゆこ人形」の時空間は、「僕」がつくりだしたものであるけれど、「僕」のものでもない何かを持っている。その何かが「まゆこちゃん」「まゆこさん」となって、そこに存在する。
さらに、その時空間に、「僕」の日常が交錯する。放り出すように描かれている「飲み疲れて、ぐったりしている」姿。その姿の背後にある時間と空間。そこには「まゆこ人形」と過ごした(?)時間・空間はまじりこんでいる。
ここまでは、普通のシナリオかもしれない。
そのあとが、なんとも魅力的である。
特に、
突然、映画のなかの「空間」が「僕の部屋」から、何の説明もなしに淡路島の私の知らない湖に飛んでしまう。移動してしまう。
そして「まゆこ人形」にもどってくる。
「淡路島・青葉湖」は、いわゆるフラッシュバックなのだが、そこに私は「肉体」を感じてどきりとするのである。そうか、フラッシュバックとは「肉体」なのか。「肉体」の記憶がふいに噴出してくることなのか、と納得する。
このト書き(?)もすばらしい。青葉湖のそばにある木、その葉っぱなのだろうけれど、湖の水面の色の対比がぱっと目に浮かぶ。それから「僕の顔」「父の顔」があり、台詞がある。そこで発せられる「声」は「過去」のものである。フラッシュバックの時間の声である。かつて「僕」は青葉湖へ言って、そこで「農家になりたかった」と思った。こころが、そういう声を発した。
--ということを、フラッシュバックの時間(過去)ではなく、「いま/ここ」で発している。「十四歳のとき」という「回想」が「いま/ここ」を告げる。
その瞬間「緑の葉」は青葉湖のそばにある木の緑の葉から、「いま/ここ」、つまり「僕の部屋」の窓から見える(?)葉になる。
時間と場所が「緑の葉」によって一瞬のうちに転換する。
人間の意識のなかでは、時間と空間は、いつでも一瞬のうちに転換する。そして、その転換を支えているのが「肉体」である。「肉体」は過去と未来をつなぐ「いま」であり、そこにはどんな時間も噴出してくる。どんな場所も噴出してくる。その噴出を、噴出させながら、なお「いま/ここ」の肉体でありつづける。過去も未来も、遠く離れた場所も「いま/ここ」につなぎとめ、肉体でありつづける。
噴出する(噴出させる)とつなぎとめるというのは、矛盾した運動だが、矛盾しているからこそ、そこに「ほんとう」がある。「頭」では、こういう矛盾はつなぎとめることはできない。
こういうことはきっと「肉体の特権」なのだと思う。
豊原は「肉体の特権」を、しっかりと生きている。
ここで「淡路島・青葉湖」が形を変えて反復される。そして、その反復のなかに、別な時間が再生してくる。
このリズムと、それを生きる肉体の、とても静かな感じ(関係)が、いいなあ、と思う。
この静かなリズムのなかに「まゆこ人形」がふたたびあらわれる。
ここからが、この映画(シナリオ)のハイライトなのだが、ちょっともったいなくて引用できない--引用したいが、引用しない。
(「白黒目」を読んでください。)
で。
ハイライト(クライマックス)のあと、いわゆる「起承転結」の「転」のあとの「結」へ移行する瞬間--そこにも、なんともいえない美しいものがある。
「声」はたしかに「声」であり、「音」なのだが、豊原が書いている「声」はサイレントの字幕のように、いま見た「映像」を反芻する。そういう力がある。
「声」によって、ある時間、ある空間が、「肉体」そのものになる。
声は時間と空間を肉体化する--というのは、かなり性急な論理の飛躍になるかもしれないけれど、そういうことをしてしまう「肉体の力」(肉体の特権)ということを考えてしまう。
この特権だけが「映像」と渡り合える力かもしれない--というのは、さらに論理の飛躍なのだけれど。
あ、でも、この問題は、もっとていねいに考え直してみたいことがらだなあ。
豊原清明「まゆこ人形」は自主製作映画のシナリオ。
○ まゆこ人形
コマ撮り。
バックからアップにする。
○ まゆこちゃんが机上を歩いている。コマ撮り。
○ 僕の部屋・昼過ぎ
ペットボトルをあおりながら壁にもたれてコーヒーやアイスレモンティーを飲ん
でいる。飲み疲れて、ぐったりしている。
○ 僕の顔・どアップ
○ 父の顔・どアップ
○ 淡路島・青葉湖
○ まゆこ人形の顔・どアップ
○ まゆこさんの自己紹介写真が 風に揺れている
○ 緑の葉
僕の顔「十四歳のとき、ここに来て僕はここに住んで農家になりたかった
いつもコーラを寝転びながらちびちび飲んでノートに書いていたのに」
父の顔「今も昔も変わってへんでワハハハハハ」
時間の交錯がおもしろい。場の交錯がおもしろい。「まゆこ人形」を動かしてコマ撮りをする。そのとき、そこには「まゆこ人形」の「物語(時間、場)」が生まれる。そして、そのときその時空間といっしょに「僕」の時間・空間もある。「まゆこ人形」の時空間は、「僕」がつくりだしたものであるけれど、「僕」のものでもない何かを持っている。その何かが「まゆこちゃん」「まゆこさん」となって、そこに存在する。
さらに、その時空間に、「僕」の日常が交錯する。放り出すように描かれている「飲み疲れて、ぐったりしている」姿。その姿の背後にある時間と空間。そこには「まゆこ人形」と過ごした(?)時間・空間はまじりこんでいる。
ここまでは、普通のシナリオかもしれない。
そのあとが、なんとも魅力的である。
特に、
○ 淡路島・青葉湖
突然、映画のなかの「空間」が「僕の部屋」から、何の説明もなしに淡路島の私の知らない湖に飛んでしまう。移動してしまう。
そして「まゆこ人形」にもどってくる。
「淡路島・青葉湖」は、いわゆるフラッシュバックなのだが、そこに私は「肉体」を感じてどきりとするのである。そうか、フラッシュバックとは「肉体」なのか。「肉体」の記憶がふいに噴出してくることなのか、と納得する。
○ 緑の葉
このト書き(?)もすばらしい。青葉湖のそばにある木、その葉っぱなのだろうけれど、湖の水面の色の対比がぱっと目に浮かぶ。それから「僕の顔」「父の顔」があり、台詞がある。そこで発せられる「声」は「過去」のものである。フラッシュバックの時間の声である。かつて「僕」は青葉湖へ言って、そこで「農家になりたかった」と思った。こころが、そういう声を発した。
--ということを、フラッシュバックの時間(過去)ではなく、「いま/ここ」で発している。「十四歳のとき」という「回想」が「いま/ここ」を告げる。
その瞬間「緑の葉」は青葉湖のそばにある木の緑の葉から、「いま/ここ」、つまり「僕の部屋」の窓から見える(?)葉になる。
時間と場所が「緑の葉」によって一瞬のうちに転換する。
人間の意識のなかでは、時間と空間は、いつでも一瞬のうちに転換する。そして、その転換を支えているのが「肉体」である。「肉体」は過去と未来をつなぐ「いま」であり、そこにはどんな時間も噴出してくる。どんな場所も噴出してくる。その噴出を、噴出させながら、なお「いま/ここ」の肉体でありつづける。過去も未来も、遠く離れた場所も「いま/ここ」につなぎとめ、肉体でありつづける。
噴出する(噴出させる)とつなぎとめるというのは、矛盾した運動だが、矛盾しているからこそ、そこに「ほんとう」がある。「頭」では、こういう矛盾はつなぎとめることはできない。
こういうことはきっと「肉体の特権」なのだと思う。
豊原は「肉体の特権」を、しっかりと生きている。
○ 僕の顔
禁煙パイポすっている僕
○ 海
風に揺れている お父さんの白髪
○ 僕が、コーンパイプを吸っている
ここで「淡路島・青葉湖」が形を変えて反復される。そして、その反復のなかに、別な時間が再生してくる。
このリズムと、それを生きる肉体の、とても静かな感じ(関係)が、いいなあ、と思う。
この静かなリズムのなかに「まゆこ人形」がふたたびあらわれる。
ここからが、この映画(シナリオ)のハイライトなのだが、ちょっともったいなくて引用できない--引用したいが、引用しない。
(「白黒目」を読んでください。)
で。
ハイライト(クライマックス)のあと、いわゆる「起承転結」の「転」のあとの「結」へ移行する瞬間--そこにも、なんともいえない美しいものがある。
○ ずっと立っている、僕
○ 紙飛行機を飛ばす
声「あっ!」
○ 黒
声「あ、と言った。それはこの世。」
○ 直立して立って、その場に思いついた俳句を吟じる。
○ 父が「 あっ! 」と言う
父の横顔から撮る。左頬
○ 海
「声」はたしかに「声」であり、「音」なのだが、豊原が書いている「声」はサイレントの字幕のように、いま見た「映像」を反芻する。そういう力がある。
「声」によって、ある時間、ある空間が、「肉体」そのものになる。
声は時間と空間を肉体化する--というのは、かなり性急な論理の飛躍になるかもしれないけれど、そういうことをしてしまう「肉体の力」(肉体の特権)ということを考えてしまう。
この特権だけが「映像」と渡り合える力かもしれない--というのは、さらに論理の飛躍なのだけれど。
あ、でも、この問題は、もっとていねいに考え直してみたいことがらだなあ。
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