詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小松弘愛「あまる」ほか

2012-07-02 09:43:46 | 詩(雑誌・同人誌)
小松弘愛「あまる」ほか(「兆」154 、2012年05月10日発行)

 小松弘愛「あまる」は「土佐の言葉シリーズ」の1篇。

稲妻、一閃
家を揺るがすようにして雷鳴

 あまった!

子供のときには
飛び上がるほどに驚いて使っていた「あまる」
いつのまにか「落ちる」に変り
ながいこと縁が切れたようになっていた言葉
それが 今
不意に口から飛び出して

 「あまる」は「天降る(あもる)」の転か、という竹村義一の節を紹介している。なるほどねえ、天が降る、か。
 まあ、そうなんだろうなあ。
 でも、私は、ちょっと違った風に感じたい。
 「余る」。

 これから書くことは、こんな調子だから、詩の感想ではなくなるのだけれど。思ったことを書くしかないので、書いてしまう。
 稲妻が落ちるではなく、「余る」。「余る」のは余分なエネルギーである。それがあるべきところからあふれてくる。「天」というと、私はどうしても「上」の方向を考えてしまい、雷が暴れている「空間」の広がりを感じることができない。
 あ、これは、変な言い方だったかなあ。
 雷を、私は「天」の現象ではなく、いま、私がここにいるときの、「まわり(空間)」の現象と感じている。「天」より下の、地上と「天」のあいだの空間といえばいいのかなあ。「天」と言ってしまうと、地上と切り離された感じがして、ピンと来ないのである。
 で、そういう空間に、いろんなものがはみだしてくる。地上からか、それこそ「天」からかわからないけれど、はみだしてきたいろいろなものが動き回って、ぶつかりあって、それでも消耗せずにエネルギーがたまってきて、「空間」の「容器」を内側から破るくらいになる。「余る」。何かが内部で余って、それが爆発する--そういう感じの「余る」。
 これは、うれしいなあ、と思うのである。
 「空間」が自分の「肉体」と重なり、そうか、こんなふうにしてときどき「あまったもの」を炸裂させれば落ち着くのか、と思い、そういうことを人間はときどきするよなあ、とも思うのである。

 で、ね。
 ここからちょっと強引に詩にもどるのだけれど。

十年ほど前のように
稲妻、一閃
家を揺るがすようにしての雷鳴がほしい

 あまった!

もう一度
子供のときのように言ってみたいのである

 「ほしい」と「あまった」と「子供のとき」「言ってみたい」。この欲望--これって、やっぱり小松の肉体のなかで「余った」何かではない?
 小松の肉体のなかにある余分なもの。余分なものというと変なのかもしれないけれど、何かが知らず知らずにたまってきて、不可解なエネルギーになる。特に子供のときは、そういうことがあるね。何かを感じているのだけれど、それをことばにできない。ことばにできないとますますわけのわからないものがたまってくる。ことばにするってことは、何かを息といっしょに吐き出すことだけれど、ことばがないと「溜息」にしかならない。子供は「溜息」のつかい方なんか知らないから、わけのわからないものは肉体にたまるばっかりだね。
 子供のときは、たぶん肉体を肉体とも思わず、お利口な子供の場合は、大人の言う酔うように肉体を「感情」と呼んだりするけれど。
 あ、脱線。
 その、知らずに知らずにたまってしまった何か、「余り」そうになった何か、それをなんとかしたい。どうしていいかわからないけれど、なんとかしたい。そういうときに雷が光って、それから雷が鳴る。
 これは、気持ちがいいねえ。
 土砂降りの雨のなかへ飛び出して、ずぶ濡れになって、雷とつながってみたい。

 あまる

 何が「あまる」のか、「あまる」のは何か--そういうことは、わからなくていい。雷に誘われて、自分の肉体のなかから、余ったものが肉体を突き破って外へ飛び出す。雷は、ほんとうは、私のなかから(子供の小松のなかから)溢れ出たエネルギーなのだ。
 「あまった!」というとき、その声といっしょに、小松は何かを吐き出すのである。

雷は「落ちる」ではなく
「あまる」ものだと信じていた頃

 そのころの小松を私は、そんなふうに想像する。そういうふうに「誤読」し、「捏造」し、なんというのだろう、「がんばれ!」と声をかけたくなるのである。

 小松が詩に書いた意味は、どうでもいい。「あまる」の語源はどうでもいい。だって、それに従っていたら、私は小松に共感できない。子供の小松に共感できない。
 「天降る」ということばは私の日常にはない。
 ことばを読むというのは、辞書を頼りに意味を特定するということではなく、自分の生活をかかえたまま、ただそのことばのなかへ入っていくことだろうと思うのである。そして、こんなことを書いてしまうのは、きっと私のなかに何か「あまった」ものがあり、それを吐き出したいからなのだろうなあ、とも思うのだが……。
 梅雨だなあ。
 雨だけではなく、雷が鳴らないかなあ、とふと思う。雷が鳴ると、うっとうしさが少しは消えるかな、とかね。



 林嗣夫「朝を待つ」に、私が小松の詩を「誤読」したこととつながる行がある。こんな結びつけ方は強引かもしれないけれど……。(詩を読むというのは、こんなふうにして、強引に「誤読」を積み重ねることである、と私は思っているので、こう書くしかないのだが。)

そのとき 冬枯れの山肌から
瑠璃色の小さな光のかたまりが飛び立つのを見た
鳥だったのか
それとも
眼を閉じて静かに呼吸しているわたしの
深い意識の闇から発せられた
見知らぬ声だったのか

 「鳥」と「わたしの/声」が見分けがつかない。「小さな光」と「深い意識の闇」が向き合う形で互いを照らしだすので、どっちがどっちかわからなくなる。深い闇は冬枯れの山にあるのか、小さな光はわたしの肉体のなかにあるのか、わからなくなる。
 「わたし」の「内部/外部」が交錯し、「わたし」が「わたし」の領域(?)を超越する。エクスタシー。わたしがわたしでなくなる。
 これって、「天降る」ではなく、「あまる(余る)」に似ていない?

 人間は、自分から飛び出した場所で何かと触れ合い、自分の肉体の限界を越える。そういう一瞬のなかに、詩がある、と思う。
 だから、詩は、論理的に説明しようとするととても変になる。「語源」というものに頼ると、どうしても意味に食い違いが生じる。--その食い違いを食い違いのまま、自分で引き受け、暮らしのなかへ帰っていく、というのがことばを読む楽しさだろうなあ、と思う。「意味」ではなく、ただことばを読み、それに自分の肉体がなじむのを待つ。「朝を待つ」ように。--それは、いつかかならず、やってくる。朝のように。




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