詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則『口福台湾食堂紀行』(2)

2012-07-06 10:16:56 | 詩集
松岡政則『口福台湾食堂紀行』(2)(思潮社、2012年06月30日)

 松岡政則『口福台湾食堂紀行』はとても魅力的な詩集である。何度でも書きたくなる。で、また書いている。
 「艸の実、艸の実」の1連目。

ひかる雨を歩いてきた
ひとはときどき無性に雨にぬれたくなるものだ
からだが決めることはたいてい正しい
雨は未来からふるのか
過去からもふっているのか
かんぶくろの艸の実、艸の実、
土から離れたものはみなさみしい

 「ひとはときどき無性に雨にぬれたくなるものだ」という1行は無造作だと思う。特に「無性に」が詩のことばからは遠い。つまり、あまりにも漠然としていてとらえどころがない。「無性に」ではなく、「無性に」に思えることのなかにも、ほんとうは「有性に」があるはずである。あるのだけれど、自覚できない。つまり、それは「無意識」みたいなもので、いいかげんすぎる。
 のだけれど。

からだが決めることはたいてい正しい

 この1行と固く結びつくとき、それは「無性に」としか言いようがないとわかる。「からだ」は「意識」とは違う--からではなく、「からだ」こそ「意識」だからである。「意識されない意識」が「からだ」。そこには「性」がうごめいている。うごめいているけれど、意識されない。つまり、ことばにならない。
 「無性に」と「からだ」は同じであり、「ぬれたくなる」の「……したくなる」と「からだが決める」の「決める」は同じなのだ。「……したくなる」のは「意識的に……したくなる」のではなく、「無意識」なのである。そして、それが「無意識」だからこそ、おさえることができない。でも、そういう無意識の欲望は、「正しい」。意識にまみれていないから、「からだ」に一番あっている。「からだ」の正直が、そこにある。
 この「からだの正直」(無性に)が、自然と出合う。そうすると、そこにすばらしい化学反応のようなものが起きる。感情が、そこからさ生まれてくる。

かんぶくろの艸の実、艸の実、
土から離れたものはみなさみしい

 「さみしい」と「正しい」が出合うのである。
 雨にぬれて歩く肉体。それは土の上を歩くのだが、そのとき人間の肉体は土に接しながら土と離れている。草の実は、草そのものは土に縛られているが、実は離れている。その、人間の「からだ」と草の実の、一種のパラレルの関係のなかに「さみしい」が、ふっと浮いてきて、ふたつをつなぐ。
 これは「意識」ではなく「無意識」の世界。「無性に」の「無」の世界。「無」だから、そこには「未来」と「過去」の区別はない。

ことばとからだが反目しあって
はらいせみたいに歩いたはずかしいほど歩いた
どこにも着きたくない歩くなのか

 「ことば」と「からだ」は反目するしかないものである。いつでも「からだ」には「無性に」の「無」の部分がある。それは「ことば」では把握しきれない。把握しきれないけれど「無性に」のように、ことばが動いてしまう。
 ほんとうは「無性に」ではないのに。
 だから、その「ことば」にはらいせをするように「歩く」。「からだ」は「からだ」をうごかすことで、「ことば」を遠ざけようとする。
 この反目、この関係を、松岡は「はずかしい」と呼んでいる。「さみしい」と同じように、これは、どこかの隙間からやってくることばである。感情である。人間的な、あまりに人間的な感情である。

わかっている艸の実、艸の実、
泣いていいのはわたしではない

 「わたしではない」からこそ、わたしは泣くのだ。「艸の実」は泣くことができない。だから、かわりにわたしが泣くのである。





草の人
松岡 政則
思潮社
コメント
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