詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

現代詩講座@リードカフェ

2012-07-23 10:05:23 | 現代詩講座
現代詩講座@リードカフェ(2012年07月18日、福岡市中央区「リードカフェ」)

 持ち寄った作品を読んで、感想を言う--その過程でおもしろいことが起きた。上原和恵の「白い雨」。
 「無理をしてことばを(詩のなかに)いれている」
 「先日の豪雨のことを書いている。気持ちはわかるが情景描写に終わっている」
 「展開のおもしろさに欠ける」
 「意味深なことばがあるが、おもしろさを詩にいれないといけないという意識がつよすぎるのかもしれない」
 「平面的な感じがする」
 否定的な意見が続出したのだが、その批判が一段落(?)したとき、「私、ちょっと朗読してみます。目をつぶって聞いてください」とひとりの受講生が言った。

どのあたりを走っているのだろうか
もうすぐ視界は開けるのだろうか
窓に打ち付ける雨は
首を伝って流れ
乳首の突起で滝となり
一気に駆け降りる

足にまとわりつく雨で
どこにも行けない
しとど濡れ
冠水した道路に
足を引きずり
立ち往生している

道しるべの
山の中腹の白い仏舎利塔も
雨の白さの中に消え
脳に雨が降り注ぎ
思考の許容力をこえ
あふれていく

 「あ、なかなかいい」
 「さっき、谷内が読んだときとはまったく違う」(上原は欠席、作品のみの参加だったので、私が代読したのである。私は朗読がへたくそである。)
 「どうしてだろう」
 「連を入れ替えたんだよね」
 そう、連を入れ換え、かつある部分を省略した。もとの詩は次の形をしていた。

だんだん垂れ下がっていく雲の手は
街を夕暮れに染めていき
頭にも覆いかぶさっていく
オレンジ色の街灯は心に灯るが
早くこの暗い道を通りすぎようと
ハンドルを握りスピードを増す

道しるべの
山の中腹の白い仏舎利塔も
雨の白さの中に消え
脳に雨が降り注ぎ
思考の許容力をこえ
あふれていく

どのあたりを走っているのだろうか
もうすぐ視界は開けるのだろうか
窓に打ち付ける雨は
首を伝って流れ
乳首の突起で滝となり
一気に駆け降りる

足にまとわりつく雨で
どこにも行けない
しとど濡れ
冠水した道路に
足を引きずり
立ち往生している

 1連目。豪雨の降り始める前から(垂れ下がってくる雨雲の様子から)書きはじめ、雲のために街が暗くなり、昼なのに街灯がつく。そして雨が降りはじめる--ていねいに状況を描写することからはじめている。時間の経過、それとともに起きるこころの変化の推移を書こうとしていることがよくわかる。
 2連目。最初は山野中腹の仏舎利塔も見えていたが、その雨はまるで脳の中に直接降ってくるくらいに激しい。3連目。車の天井を破り、首を流れ、乳房をながれる。4連目。車の中は、外と同じように水浸し。立ち往生してしまう。
 「首を伝って流れ/乳首の突起で滝となり/一気に駆け降りる」というおもしろい部分がある。「しとど濡れ」と繋げて読むと、たしかに意味深である。雨のことを書いているのだが、雨からはみだしていく部分に、何か、詩がもっている「二重性」を感じる。
 「二重性」というのは、現実には「雨」を描写するとみせかけて、ほんとうは違うことを書いてしまうということである。「雨」は空から降ってくる「雨」ではなく、たとえば情欲(肉欲)の象徴とか。そうすると、雨と車と私(上原)の関係は、男と女の関係に変わってくる。読者をそういう「誤読」に誘うことができる。こういう「誤読」では、読者は作者を無視して、自分のなかにある情欲を読むのだけれど、こういう瞬間が、実は楽しい。
 で、
 「まだまだ、男を吐く、という詩にはなっていないね」
 という意見もでたのだが、それは、上原の詩が「誤読」を誘うまでには作品として独立していない--上原の書こうとしている「意味」から離れていない、ということである。人には(詩人には)だれでも書きたいことがある。書きたい意味がある。
 けれど、読者はそういうものとは関係なしに、自分の知らないこと(自分の中にあるのだけれど、自分のことばでは外に出すことのできない感情の動き)を、他人のことばを借りて読みとりたいものなのだ。
 作者は「これはこういう意味です」と説明しはじめると、どんな作品でも「傑作」になる。作者の言いたいことを正確につたえることばになってしまう。
 でも、読者は、そういうことは無視したい。作者が何を書きたいかではなく、私が何を読みたいか、そこに書かれていることばから何を感じるかだけが問題なのだ。
 ここに作者と読者のすれ違いというか、断絶がある。
 私は、そういう断絶が、実は好きである。つまり「誤読」大好き人間なのである。「誤読」をどこまで暴走させることができるか。しかも、その暴走の過程で、作者を自分の暴走の方にどれだけ引き込めるか、ということをことばで試してみるのが好きなのである。私が何人かの仲間と「現代詩講座」という形でやっている読書会は、いわば私が「詩はどこにあるか」で書いていることがらの延長にある。

 ちょっと脱線したかな?

 で、今回の講座では、その「暴走」を受講生のひとりが、さらりと実践してみてくれたということになる。
 「だんだん垂れ下がっていく雲の手は」という書き出しは、「雲の手」ということばのなかに「詩的」なにおいが濃厚に漂っている。ふつうのことばではなく、ちょっと気取ったことばで現実(見えるもの)を言いなおす。そうすると、そこに詩が生まれてくるという作者の意識が見えることばである。「街を夕暮れに染めていき」の「夕暮れ」にもそういう思いが反映しているかもしれない。そういうことばをつかいながら、上原は状況を説明しはじめる。
 説明だから(そうして、この講座のときは、まだ「九州北部豪雨」の印象が強く残っていたし、その日も雨が降りそうだったから)、書いてあることがとてもよくわかる。しかし、この「わかる」がくせものである。わかると突然、おもしろくなくなるということもあるのだ。わからなかったものがわかるにかわると興奮するけれど、わかりすぎていることをわかるように説明されてもなあ、しかも気取ったことばで説明されてもなあ……ということだろうか。
 だから、その「わかる」を捨ててしまう。

どのあたりを走っているのだろうか
もうすぐ視界は開けるのだろうか

 この2行ではじまると、何を書こうとしているのかわからない。わからないから、読者はわかろうとしてことばを追いかける。そこから、ことばがどんなふうに変わっていくかを知りたいと思う。作者の書いていることばと、自分が読みとろうとすることばが重なる瞬間を探してしまう。

窓に打ち付ける雨は
首を伝って流れ
乳首の突起で滝となり
一気に駆け降りる

 「窓に打ち付ける雨は」では、その窓が車の窓であることはわからない。わからないから、その次の「首」や「乳房」に目が行ってしまう。読者は(私は)「窓」を忘れ、雨にぬれる女を思い描く。ブラウスは肌に貼り付き、乳首の突起が見える。--こういうのって、見た記憶(見たいと思った記憶)があるでしょ? あるいは、あ、これを見られたらいやだなあと思った記憶、ということかもしれないけれど。
 いったん、そういう肉体の記憶にまきこまれると、「まとわりつく」も「しとど濡れ」も、「どこにも行けない」も「立ち往生」も違った「意味」をもちはじめる。そうか、あれは(あの瞬間は)「立ち往生」ということばでも言い表すことができるのか……。
 そうして、

脳に雨が降り注ぎ
思考の許容力をこえ
あふれていく

 ほら、「意味」を考える「脳」なんて、とってもちっちゃい。そんなものを突き破って、情欲の雨はあふれていく。そのとき、私(上原)は私ではなく、雨そのものになる。
 上原はそんなふうには書いていない。書いていないけれど、そんなふうに読みたくなる。もっと、そういう感じのことばにしてしまえば、詩はおもしろくなるのになあ、と思ってしまう。

 詩は、書きあがったあと、いったん捨て去って、そこから別のことを暗示してみようとするとおもしろくなるかもしれない。豪雨で立ち往生した体験。それをそのまま豪雨の体験ではなく、豪雨を捨て去って、読者にわからないようにしてしまう。簡単に言うと、豪雨を「嘘」にしてしまう。豪雨ではなく、何か別なものにできないかなあ、と考え、人を騙してみるとおもしろいかもしれない。
 で、読者が、「あ、上原さん、すごい。こんなこと書いていいの?」と言われたら「あら、これはこのまえの豪雨のことを書いたのよ。立ち往生してたいへんだったんだから。情欲なんて、まあ、いやらしい人ね。あなたがいやらしいからそんなこと想像するのよ」と逆襲すればいいのだ。
 読者を騙す(嘘をつく)と、詩は、おもしろくなる。詩は、気障な嘘つき。書く方も読む方も嘘をつきあって、嘘のなかで、本音をちらりとのぞかせる。ほんとうのことというのは、隠しても隠しても出てきてしまうものである。で、そうやって出てきたもののうち、かっこいいなあ、と思うものは自分から出てきた、みっともないなあと思うものは相手から出てきたと、自分勝手に放言し合う。
 そうすると、楽しい。
コメント (1)
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