中村梨々『たくさんの窓から手を振る』(ふらんす堂、2012年04月11日発行)
中村梨々『たくさんの窓から手を振る』の巻頭の「ロシア」は魅力的だ。軽いリズム、疾走することば。そして、そこには不思議なことに、奇妙な淋しさが潜んでいる。
その淋しさを、中村の詩に出会うまで、私は忘れていた。中村の詩を読み、あ、そうだった、と私の肉体は淋しさを思い出した。--というのは、正確ではないかもしれない。中村のことばがかかえこんでいる淋しさにであって、あ、そうか、あのとき、私はこういう淋しさを生きてきたのか、と思ったというのが正しいのかもしれない。そういう意識の変化がとても自然に起きたので、私はそのことを覚えていると勘違いしたのかもしれない。私の肉体はそれを覚えている、と。
子どもは誰でも空想する。そして、「いま/ここ」をロシアだと言えば、そこがロシアになる。山の中の手作りの小屋が「秘密基地」になるのとかわりがない。
こういうとき、誰かが言い出しっぺであり、誰かがそれについていく。「空想」は最初から共有されるのではなく、誰かの空想が私の空想に侵入してくる。そして、私が私でなくなる。--というのは、しかし、淋しさではない。淋しさかもしれないけれど、ちょっと違う。
ここまでは、まあ、空想。しかし、その次の、
この、空想を支える「論理」が、不思議な淋しさである。「もーーっと離れたとこでは一緒にいられる」はどこか。「いま/ここ」ではない。「いま/ここ」でありながら、違うところである。「ロシア」であるといえば、空想にもどる。でも、空想ではないのだ。「いま/ここ」で体験していることを、肉体の奥にくぐらせたとき、どこからともなくやってきた「論理」。
「いま/ここ」でなくなっても、「いま/ここ」を思い出すとき、「あたしたち」が「一緒にいられる」という「論理」。そういう「論理」を夢見る淋しさが、論理のつくりだす淋しさが、この詩に隠れている。
もちろん、そういうことは子どものときではなく、あとから、つまり中村がこの詩を書くときにつけくわえたものなのだが、そういうものをつけくわえずにはいられない淋しさ、人恋しさが、ことばを清潔にしている。
そして、その「論理」を
という、子どもの「論理」でもう一度叩き壊すところもいい。
叩き壊されて、肉体の奥で、それは静かに生きるのだ。叩き壊された「論理」の破片がきらきらと輝く。
ナオちゃんにはたどりつけない。けれど、ロシアにはたどりつける。そういう矛盾のなかで、叩き壊してきた「論理」が淋しさとなって甦る。
この「たどりつけなさ」の不思議な形--それは、どの詩にも隠れている。あるいは、どの詩のことばをも動かす基本になっている。
「夏草」の書き出し。
ここに書かれている「月日」は、まあ、日々、年月、などと同じことばなのかもしれないけれど、私には「月」と「日(太陽)」そのものに感じられる。それはたぶん1連目が太陽の光で始まり、夕暮れを描いているからかもしれない。草野折れた断面の白さ--それがそのまま空に昇って月になっているからかもしれない。
日々ではなく、その日々をつくりだす「月」と「日」--そのものを、あなたはどう感じているのか。問いかけるとき、中村は、私ととっての「月」は草の折れた切り口、「日」は影をつくる光、ということになるかもしれない。
風景をとおして語る月と日、その繰り返しが、いつもあったに違いない。風景と一緒に中村は月日を感じていた。でも、あなたは? それを聞かないことには、「もーーっと離れたとこでは一緒にいられる」という気持ちになれない。そう思ったときに、ふいにこみあげてくる淋しさ。
「もーーっと離れたとこ」でも「一緒にいられる」、一緒にいたい。そういうことを中村は、追い求めていると思う。
その「もーーっと離れたとこ」とは、どこか。
「はくはつ」は「白髪」か。「白髪」と書くとき、それは波の比喩か。
私には「はくはつ」は「ばくはつ」と感じられた。「爆発」なら事件だが、とても小さな小さな肉体の内部での剥離(分離、炸裂)--「ば」ではなく「は」と軽く抑え込むことあらわせる何か、のように感じられる。
「もーーっと離れたとこ」は、ほんとうは肉体の内部。そのなかの小さな乱れというか、動き。
「感覚」「いかり」「かんじょう」に区別はあるのか。たしかにあるけれど、それは説明しようとすると、ややこしい。からみあっている。同じように、「ひとさしゆび」「耳たぶ」もどこかで「一緒になっている」。
それは、いいかえると「ひそんでいる」ということになる。
「ひそんでいる」場所は、「いま/ここ」。そして、それは肉体の「内部」。そこで、「わたし」が私にしかわからない形で淋しく「はくはつ」している。
中村梨々『たくさんの窓から手を振る』の巻頭の「ロシア」は魅力的だ。軽いリズム、疾走することば。そして、そこには不思議なことに、奇妙な淋しさが潜んでいる。
その淋しさを、中村の詩に出会うまで、私は忘れていた。中村の詩を読み、あ、そうだった、と私の肉体は淋しさを思い出した。--というのは、正確ではないかもしれない。中村のことばがかかえこんでいる淋しさにであって、あ、そうか、あのとき、私はこういう淋しさを生きてきたのか、と思ったというのが正しいのかもしれない。そういう意識の変化がとても自然に起きたので、私はそのことを覚えていると勘違いしたのかもしれない。私の肉体はそれを覚えている、と。
ナオちゃんがいうには、あたしたち自転車に乗って
ロシアの平原を突っ走っていたって
すごいねぇ、ロシアなんて行ったこともないし行きたいと
思ったこともないのに、ロシア
ロシアロシアロシア、わたしはもう駅とか空港とか
思い切り空とかすっ飛ばして、ロシアにいる
ロシアにいるナオちゃんとあたし
羽も生えていないのに方角さえわからないの に、よ
ロシアだって
おまけにあたしとナオちゃんはいま海を隔てて離れている
離れてるあたしたちだから、もーーっと離れたとこでは一緒にいられる
ってーーことが、ロシアなロシアっ
子どもは誰でも空想する。そして、「いま/ここ」をロシアだと言えば、そこがロシアになる。山の中の手作りの小屋が「秘密基地」になるのとかわりがない。
こういうとき、誰かが言い出しっぺであり、誰かがそれについていく。「空想」は最初から共有されるのではなく、誰かの空想が私の空想に侵入してくる。そして、私が私でなくなる。--というのは、しかし、淋しさではない。淋しさかもしれないけれど、ちょっと違う。
おまけにあたしとナオちゃんはいま海を隔てて離れている
ここまでは、まあ、空想。しかし、その次の、
離れてるあたしたちだから、もーーっと離れたとこでは一緒にいられる
ってーーことが、ロシアなロシアっ
この、空想を支える「論理」が、不思議な淋しさである。「もーーっと離れたとこでは一緒にいられる」はどこか。「いま/ここ」ではない。「いま/ここ」でありながら、違うところである。「ロシア」であるといえば、空想にもどる。でも、空想ではないのだ。「いま/ここ」で体験していることを、肉体の奥にくぐらせたとき、どこからともなくやってきた「論理」。
「いま/ここ」でなくなっても、「いま/ここ」を思い出すとき、「あたしたち」が「一緒にいられる」という「論理」。そういう「論理」を夢見る淋しさが、論理のつくりだす淋しさが、この詩に隠れている。
もちろん、そういうことは子どものときではなく、あとから、つまり中村がこの詩を書くときにつけくわえたものなのだが、そういうものをつけくわえずにはいられない淋しさ、人恋しさが、ことばを清潔にしている。
そして、その「論理」を
ってーーことが、ロシアなロシアっ
という、子どもの「論理」でもう一度叩き壊すところもいい。
叩き壊されて、肉体の奥で、それは静かに生きるのだ。叩き壊された「論理」の破片がきらきらと輝く。
ナオちゃんにはたどりつけない。けれど、ロシアにはたどりつける。そういう矛盾のなかで、叩き壊してきた「論理」が淋しさとなって甦る。
この「たどりつけなさ」の不思議な形--それは、どの詩にも隠れている。あるいは、どの詩のことばをも動かす基本になっている。
「夏草」の書き出し。
光のあるうちはひとつだった影が
夕暮れが迫るにつれてひとつ、ひとつ増えていく
折れた草がその切り口を空に向け
白くうかびあがる
月日のことを聞きそびれた
あなたに、
あなたの感じている月日のことを
ここに書かれている「月日」は、まあ、日々、年月、などと同じことばなのかもしれないけれど、私には「月」と「日(太陽)」そのものに感じられる。それはたぶん1連目が太陽の光で始まり、夕暮れを描いているからかもしれない。草野折れた断面の白さ--それがそのまま空に昇って月になっているからかもしれない。
日々ではなく、その日々をつくりだす「月」と「日」--そのものを、あなたはどう感じているのか。問いかけるとき、中村は、私ととっての「月」は草の折れた切り口、「日」は影をつくる光、ということになるかもしれない。
風景をとおして語る月と日、その繰り返しが、いつもあったに違いない。風景と一緒に中村は月日を感じていた。でも、あなたは? それを聞かないことには、「もーーっと離れたとこでは一緒にいられる」という気持ちになれない。そう思ったときに、ふいにこみあげてくる淋しさ。
「もーーっと離れたとこ」でも「一緒にいられる」、一緒にいたい。そういうことを中村は、追い求めていると思う。
その「もーーっと離れたとこ」とは、どこか。
砂地だって減っていくんだもの、ひんやりし
てる感覚のまま
はなれる夜は
はくはつ
潮くさい骨になるのかもね、ひとさしゆびも
いかりもかんじょうも
耳たぶに寄せる波の音がいまも転がしている
貝殻の音だよ
なまあたたかい ひそんでるものって、海面。
「はくはつ」は「白髪」か。「白髪」と書くとき、それは波の比喩か。
私には「はくはつ」は「ばくはつ」と感じられた。「爆発」なら事件だが、とても小さな小さな肉体の内部での剥離(分離、炸裂)--「ば」ではなく「は」と軽く抑え込むことあらわせる何か、のように感じられる。
「もーーっと離れたとこ」は、ほんとうは肉体の内部。そのなかの小さな乱れというか、動き。
「感覚」「いかり」「かんじょう」に区別はあるのか。たしかにあるけれど、それは説明しようとすると、ややこしい。からみあっている。同じように、「ひとさしゆび」「耳たぶ」もどこかで「一緒になっている」。
それは、いいかえると「ひそんでいる」ということになる。
「ひそんでいる」場所は、「いま/ここ」。そして、それは肉体の「内部」。そこで、「わたし」が私にしかわからない形で淋しく「はくはつ」している。
たくさんの窓から手を振る―中村梨々詩集 | |
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