詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マリウス・ホルスト監督「孤島の王」(★★★)

2012-07-05 10:42:22 | 映画
監督 マリウス・ホルスト 出演 クリストッフェル・ヨーネル、ベンヤミン・ヘールスター、ステラン・スカルスガルド

 北の海の色、空気の色、湿気の感じがスクリーンいっぱいに広がる。ここに描かれている北の海、孤島へ行ったことがあるわけではないのだが、あ、北の海だ、と思う。波の色や、雪の色も、私たちがふつうに見る色とは違う。内部が硬い。やわらかみがまったくない。青く、暗い。どこまでも冷たい。体温をすべて吸収してしまいそうな色が、常にスクリーンを支配している。その冷たさに、圧倒される。
 そこでは人間が人間でいることがむずかしい。そんな土地では互いの温かさを分け合うことが必要なのに、温かさを否定している。やわらかな接触というものを否定している。象徴的なのが、少年たちを名前で呼ぶのではなく番号で呼ぶことだ。親しい接触を拒絶し、人間をものとして扱う。それを秩序だと思い込んでいる。単に「管理」するのに都合がいいから、というのが管理する側の、一種の経済(合理主義)である。
 この、なんといえばいいのか、少年たちが「もの」になってしまっている状態を、カメラは痛いくらいの緊張感で映像化する。食事の場面が象徴的かもしれない。大きな食堂。少年たちのテーブルが縦に並んでいる。それを真横から見るように管理する側のテーブルが一列。そこでは話すことを禁じられ、ただ食べることだけを命じられている。しゃべる人間は、食事の変わりに木の棒をくわえさせられる。その状態では、食べることも話すこともできない。少年たちは食べる人間ではなく、食べる「もの」のように、ただ整然と並んでいる。そして、それを院長たちが監視している。食べるよろこびも、ここでは禁止されている。
 こうした場(空間)では、接触はどうしても暴力的になる。そして、それは暴力なのだけれど、それした他人との接触が不可能なので、そうした暴力の体験をできない少年たちは、いっそう不幸である。暴力的な接触をとおして、それでも人間的な痛みの共有から、不思議な連帯が生まれることもあるが、そういうこともたいてけんできない。なによりも暴力を振るわないことには自己表現の方法がないのである。自己実現の方法がないのである。自己表現をしないこと、自己実現をしないこと--この施設の院長のことばを借りれば「一員になる」ことを少年たちに強いる。「一員」と院長が言うとき、そこに名前を否定し、番号で呼ぶという思想が組み込まれる。C-19がダメならC-18でもC-20でもいい。それはほんとうに「一員」なのである。定冠詞をもった人間ではなく、不定冠詞(あるひとつ、あるひとり)でしかない。
 そうした世界にあって、なんとしても自己実現をしようとする少年は「英雄」になる。脱走を試みる少年は、彼らのあこがれであり、そして同時に妬みの対象にもなる。羨望には祈りもあるが、それから自分がおいてきぼたをくらうと怒り、裏切りにもなる。「英雄」が脱走しそうになるとき、つれて行ってもらえない少年は密告をする。それも、もっとも自分が憎んでいる相手に。
 この哀しさ。裏切りでしか、自分の欲望を実現できない哀しさ。裏切りでしか自分の願いをつたえることのできない切なさ。手を取り合うべきとわかっているのに、それができない。
 みんな孤立している。そこから、さらに孤立してしまう--その絶望のなかで、少年は裏切るのだ。
 そして、そのことを少年たちはわかっている。自己実現ができないからこそ、わかりあっている。密告してしまう人間になりうることを知っているのだ。だから、その少年が自殺したとき、彼を自殺に追い込んだ寮長に対して怒りが爆発する。おとなの不正が許せない。我慢できなくなる。自分の「未来」を投げ捨てて、寮長に怒りをぶつける。その怒りが少年たちをのみこんでいく。このエピソードは、そこにいる少年たちが、そうやってここにやってきたのだと感じさせる。彼らは、どうしようもない悪辣な少年たちではない。大人への正当な怒りのために何かをやってしまった。過去はいっさい語られないので事実はわからないが、そういうことを感じさせる。
 でも、少年たちは弱い。自分たちを組織する「方法」を知らない。だいたい、少年たちの施設は、そういう「組織的な運動」を拒絶し、少年たちを孤立するように「教育」しているから、そこでは組織的な運動というものは存在しえないのである。怒りは怒りとして孤立し、怒りが力にはならない。そして、ただ悲しみに分裂していく。孤立した悲しみは、やすやすと管理する側に取り押さえられ、ふたたび孤立した「檻」に封印される。そこにあるのは悲しみではなく、「乱暴(暴力)」である、という具合にレッテルをはられて……。

 とてもつらい映画である。そして最後には悲しい死がある。それでもこの映画は不思議なことに希望を持っている。ひとはいつでも自分自身のなかに「物語」を持っている。それは、意地悪く言えば「逃避」かもしれない。しかし、その「物語」のなかにかけがえのないものがある。誰にも渡せない--誰にも渡せないがゆえに、誰かと一緒にその時間を共有したいという願いがある。そして、それはある瞬間、人にしっかりと手渡されることがある。いっしょに同じ時間を生きることで共有されるものがある。そうやって引き継がれるものがある。
 それが、やがて力になり、この映画の舞台である少年矯正施設を廃止に追いやったというこになる。

 冷たい雪を握りしめていると、ある瞬間から、それを「熱い」と感じることがある。雪は冷たいままだが、体のなかで一種の変化が起きて、雪の冷たさではなく、体の熱さを感じるのだと思う。
 この映画は、そういう変化を、私の「肉体」のなかで引き起こす。
 冷たい北の海、波、氷、傷ついたくじら。そして少年たちの悲劇。どうしようもない死。それを握りしめていると、体が熱くなる。

                          (2012年07月04日、KBCシネマ1)

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