柿沼徹『もんしろちょうの道順』(思潮社、2012年06月30日発行)
柿沼徹『もんしろちょうの道順』を読みながら、私はとまどってしまった。たとえば「もんしろちょう」。その作品の一部が「帯」に引用されている。
ここだけを読むと、もんしろちょうを描写していることがわかる。もんしろちょうが世界から切り落とされて(つまり何とも関連づけられないで)、純粋に「もの」としていま/ここに浮いている。これは前後するけれど「立ち止まることとはちがう/考えることとはちがう……」の4行の言い直しである。つまり、それはパラレルというか、二重の構造になっていて、比喩が比喩と重なることで、新しいことばの運動を誘う仕組みになっているのだが。
うーん。
ことばの運動の構造はわかるけれど、それがわかるからといって、それがおもしろいとは限らない。
そして、たぶん、ここが一番の問題点だと思う。
書いている柿沼にしてみれば、ことばの運動の構造がわかるということは、柿沼が考えたことが相手(読者)に伝わったということになるかもしれない。自分の言いたいことを読者につたえるのが文学--というなら、まあ、それで目的は達成したことになるのかもしれない。
でも、私は「違う」と思うのだ。
柿沼の言いたいこと、書きたいことは、わかればわかるにこしたことはないのだけれど、わからなくてもいいと思う。わからなくても、あ、これはおもしろい、という方が好きなのだ。そして、その「これはおもしろい」というのは、たいていがわからないからおもしろいのである。えっ、それで、この先、どうことばが動いていく? その不安定な感じ、わからないけれどついて行ってみようと思う瞬間が愉しいのだ。
申し訳ないけれど「白い今が/ひらひらと宙に浮いている」と「立ち止まることとはちがう」「考えることとはちがう」が同じというだけでは、そこには「思念」(これは帯にあったことば)にはなりえない。「思念」は抽象的ではなく、具体的なものだ。
私はいまちょっと思うことがあってプラトンを読み返している。そこではソクラテスがばかの一つ覚えみたいにして「馬・医者・体育・靴づくり職人」という比喩を繰り返している。あ、その話はもう聞いた、といいたいくらい何度も何度も出てくる。それは、いわば「運動」を考えるときの比喩なのだが、いいかえると柿沼の詩集の帯に書かれている「思念」の説明なのだが、ソクラテスが知っていて、なおかつ対話の相手が知っている「もの」を潜り抜けることで、それは抽象ではなく具体に変わる。そして、この具体が「真実」(真理)というものなのだ。「思念」は「抽象」ではなく、ほんとうは具体そのものなのだ。その具体を積み重ねて、考えるということが始まる。人間は、具体以外のことは、ほんとうは考えられない。肉体で覚えているものしか土台にできない。
言い換えると。
「抽象」には「まちがい」がない。それが「抽象」の一番まちがっているところだ。
言い換えると。
「抽象」を持ち出して、これが私の言いたいこと--と言ってしまえば、それは全部「正解」になる。つまり、私が言いたいのはこういうことであって、それを理解できないとしたら読者が悪い、と言ってしまえば「文学」は成立しないことになる。
言い換えると。
あらゆる作品が「傑作」になる。
「抽象」--まちがいのない「思念」を表現しているのだから。
あ、何か、私の書いている文の方が「抽象」そのものかな?
詩にもどろう。「もんしろちょう」は次のように始まっている。
「切って落とされたかのように」ということばからわかるように、最初に引用した部分は、このことを言いなおしているのだけれど--まあ、それは、ちょっとめんどうくさいことになるので、その点を指摘しておくだけにして……。
いま引用した部分1連目から4連目までは、かなりおもしろい。「過去」という「抽象」が「蛹」「青虫」「卵」という具体的なものをとおして語られ、それはもんしろちょうのいまとはどうつながるのかわからない(あまりにも形が違いすぎる)ということが語られる。
どうつながるかわからない--と私は書いたけれど、わからないわけがないよね。実は、知っている。蝶は卵→青虫→蛹→ちょうという具合に変化することは、たいていの人間なら知っている。だから、わからないわけではない。
しかし、
これは知識というものである。
だから、ほんとうは「知っている」であって「わかる」というのとは違う--ということろから、この柿沼の詩は始まっている。(始まったはずである。)
なぜ「わかる」ではないのか、というと、卵→青虫→蛹→ちょう(羽化)という変化を私たちは私たちの肉体で体験していないからだ。肉体で覚えていることではないからだ。人間は傲慢(?)な存在で、自分の肉体で体験していないことさえ、知ることをとおして「わかる」と思ってしまう。
そのことを深く反省すれば、そこからほんとうは「思念」が始まるのだけれど。
柿沼は、ここで踏みとどまることができない。
「卵」にまで、「過去」をさかのぼったら、そこで突然行き詰まって、「いま」(もんしろちょう)に戻ってしまうのは、「思念」することをやめているとした思えないのだ。私には。
卵のさらに先の「過去」を掘り起こしてこそ、「思念」なのじゃないのかな?
卵の先には「無」しかない?
そうかなあ。
遺伝子しかない。
そうかなあ。
究極はヒッグス粒子しかない。
え、そうなのかなあ。
たとえばね、これは蝶が夢見たのか、それとも私が夢見たのか--なんて、二重構造を生きた詩人がいたねえ。その詩人は青虫や卵に比べると、完全に、「もんしろちょうではなかった過去」というものじゃないだろうか。蛹も青虫も卵も、それに比べたら、もんしろちょうに過ぎない。あの詩人にとっては、ことばがそういう運動をできるということが「過去」そのもの、なのだ。あの詩人にとっては、ことばに踏みとどまることで、蝶と夢とことばを区別できないものにした。それを手で触ったのだ。
踏みとどまるとは、逸脱することである。そうして、自分の肉体が覚えているものを掘り起こし、そこからもう一度ことばを動かしなおすことである。ソクラテスなら馬にもどる。そういう何か、絶対にここにもどればやりなおしができる、という「もの」を書かないかぎり「思念」は動かない。
(あ、詩集の「帯」に焦点をしぼって文句を書けばよかったかなあ。--と、いま少し反省している。珍しく「帯」を読んでしまって、それにひきずられて詩集を読んだ。素肌かの状態で詩集を読めば、またちがった感想になったかもしれない。)
柿沼徹『もんしろちょうの道順』を読みながら、私はとまどってしまった。たとえば「もんしろちょう」。その作品の一部が「帯」に引用されている。
それは立ち止まることとはちがう
考えることとはちがう
語りかけることとはちがう
それは流れることですらない
切って落とされたような
白い今が
ひらひらと宙に浮いている
ここだけを読むと、もんしろちょうを描写していることがわかる。もんしろちょうが世界から切り落とされて(つまり何とも関連づけられないで)、純粋に「もの」としていま/ここに浮いている。これは前後するけれど「立ち止まることとはちがう/考えることとはちがう……」の4行の言い直しである。つまり、それはパラレルというか、二重の構造になっていて、比喩が比喩と重なることで、新しいことばの運動を誘う仕組みになっているのだが。
うーん。
ことばの運動の構造はわかるけれど、それがわかるからといって、それがおもしろいとは限らない。
そして、たぶん、ここが一番の問題点だと思う。
書いている柿沼にしてみれば、ことばの運動の構造がわかるということは、柿沼が考えたことが相手(読者)に伝わったということになるかもしれない。自分の言いたいことを読者につたえるのが文学--というなら、まあ、それで目的は達成したことになるのかもしれない。
でも、私は「違う」と思うのだ。
柿沼の言いたいこと、書きたいことは、わかればわかるにこしたことはないのだけれど、わからなくてもいいと思う。わからなくても、あ、これはおもしろい、という方が好きなのだ。そして、その「これはおもしろい」というのは、たいていがわからないからおもしろいのである。えっ、それで、この先、どうことばが動いていく? その不安定な感じ、わからないけれどついて行ってみようと思う瞬間が愉しいのだ。
申し訳ないけれど「白い今が/ひらひらと宙に浮いている」と「立ち止まることとはちがう」「考えることとはちがう」が同じというだけでは、そこには「思念」(これは帯にあったことば)にはなりえない。「思念」は抽象的ではなく、具体的なものだ。
私はいまちょっと思うことがあってプラトンを読み返している。そこではソクラテスがばかの一つ覚えみたいにして「馬・医者・体育・靴づくり職人」という比喩を繰り返している。あ、その話はもう聞いた、といいたいくらい何度も何度も出てくる。それは、いわば「運動」を考えるときの比喩なのだが、いいかえると柿沼の詩集の帯に書かれている「思念」の説明なのだが、ソクラテスが知っていて、なおかつ対話の相手が知っている「もの」を潜り抜けることで、それは抽象ではなく具体に変わる。そして、この具体が「真実」(真理)というものなのだ。「思念」は「抽象」ではなく、ほんとうは具体そのものなのだ。その具体を積み重ねて、考えるということが始まる。人間は、具体以外のことは、ほんとうは考えられない。肉体で覚えているものしか土台にできない。
言い換えると。
「抽象」には「まちがい」がない。それが「抽象」の一番まちがっているところだ。
言い換えると。
「抽象」を持ち出して、これが私の言いたいこと--と言ってしまえば、それは全部「正解」になる。つまり、私が言いたいのはこういうことであって、それを理解できないとしたら読者が悪い、と言ってしまえば「文学」は成立しないことになる。
言い換えると。
あらゆる作品が「傑作」になる。
「抽象」--まちがいのない「思念」を表現しているのだから。
あ、何か、私の書いている文の方が「抽象」そのものかな?
詩にもどろう。「もんしろちょう」は次のように始まっている。
もんしろちょうは
不可解な過去をもっている
蛹
もんしろちょうには
もんしろちょうではなかった過去がある
切って落とされたかのように
あとかたも残っていないが
青虫
卵
「切って落とされたかのように」ということばからわかるように、最初に引用した部分は、このことを言いなおしているのだけれど--まあ、それは、ちょっとめんどうくさいことになるので、その点を指摘しておくだけにして……。
いま引用した部分1連目から4連目までは、かなりおもしろい。「過去」という「抽象」が「蛹」「青虫」「卵」という具体的なものをとおして語られ、それはもんしろちょうのいまとはどうつながるのかわからない(あまりにも形が違いすぎる)ということが語られる。
どうつながるかわからない--と私は書いたけれど、わからないわけがないよね。実は、知っている。蝶は卵→青虫→蛹→ちょうという具合に変化することは、たいていの人間なら知っている。だから、わからないわけではない。
しかし、
これは知識というものである。
だから、ほんとうは「知っている」であって「わかる」というのとは違う--ということろから、この柿沼の詩は始まっている。(始まったはずである。)
なぜ「わかる」ではないのか、というと、卵→青虫→蛹→ちょう(羽化)という変化を私たちは私たちの肉体で体験していないからだ。肉体で覚えていることではないからだ。人間は傲慢(?)な存在で、自分の肉体で体験していないことさえ、知ることをとおして「わかる」と思ってしまう。
そのことを深く反省すれば、そこからほんとうは「思念」が始まるのだけれど。
柿沼は、ここで踏みとどまることができない。
「卵」にまで、「過去」をさかのぼったら、そこで突然行き詰まって、「いま」(もんしろちょう)に戻ってしまうのは、「思念」することをやめているとした思えないのだ。私には。
卵のさらに先の「過去」を掘り起こしてこそ、「思念」なのじゃないのかな?
卵の先には「無」しかない?
そうかなあ。
遺伝子しかない。
そうかなあ。
究極はヒッグス粒子しかない。
え、そうなのかなあ。
たとえばね、これは蝶が夢見たのか、それとも私が夢見たのか--なんて、二重構造を生きた詩人がいたねえ。その詩人は青虫や卵に比べると、完全に、「もんしろちょうではなかった過去」というものじゃないだろうか。蛹も青虫も卵も、それに比べたら、もんしろちょうに過ぎない。あの詩人にとっては、ことばがそういう運動をできるということが「過去」そのもの、なのだ。あの詩人にとっては、ことばに踏みとどまることで、蝶と夢とことばを区別できないものにした。それを手で触ったのだ。
踏みとどまるとは、逸脱することである。そうして、自分の肉体が覚えているものを掘り起こし、そこからもう一度ことばを動かしなおすことである。ソクラテスなら馬にもどる。そういう何か、絶対にここにもどればやりなおしができる、という「もの」を書かないかぎり「思念」は動かない。
(あ、詩集の「帯」に焦点をしぼって文句を書けばよかったかなあ。--と、いま少し反省している。珍しく「帯」を読んでしまって、それにひきずられて詩集を読んだ。素肌かの状態で詩集を読めば、またちがった感想になったかもしれない。)
もんしろちょうの道順 | |
柿沼 徹 | |
思潮社 |