詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

早矢仕典子「枝垂れる」ほか

2012-07-08 11:22:29 | 詩(雑誌・同人誌)
早矢仕典子「枝垂れる」ほか(「橄欖」94、2012年06月03日発行)

 早矢仕典子「枝垂れる」には、「詩的」なことばから遠い部分がある。「散文的」な部分がある。しかし、そこがおもしろい。

「庭の枝垂れが咲いたから 遊びにおいで」
二年前
年老いた伯母から誘われた

亡くなった父は この伯母が苦手だった
伯母は 亡くなった母を深く愛していた

電話で伯母は
伯父さんには 施設に入ってもらったの と言った
暴れて 骨折させられてね
そのころの私には 距離が少し遠かった
伯母の声の奥にあるものが 耳に響いていなかった

わずかに 後れをとりながら
我が家にも やがてその声の影がしずかに染み透っていった
「施設」は具体的な「施設」の形になり
「暴れて」は具体的な「暴れて」の肉体をもち
伯母の庭のしだれ桜の満開の花
は遠くなったり 近くなったり
しながら頻りに匂った

 「散文的」というのは、

「施設」は具体的な「施設」の形になり
「暴れて」は具体的な「暴れて」の肉体をもち

 というような行のことである。これでは「散文」にすらなっていないかもしれない。散文とは事実(具体)を積み重ねて、新しい事実へたどりつくことばの運動である。(森鴎外の「渋江抽斎」は、その見本・手本である。)早矢仕は、その「具体」を書かずに「具体的」ということばですませている。これでは何も書いたことにならない。
 --と、書いて、私はその「散文にすらなっていない」「何も書いたことにならない」がゆえに、ここには「事実」が書かれている、と思うのである。
 書いていることが矛盾してる?
 あ、そうだねえ。
 書き直そう。
 早矢仕は、ここでは、「後れ」というものを書いているのである。

わずかに 後れをとりながら

 という行があるが、すべては「後れる」。ことばが先にあって、そのあとを「事実」がゆっくりと追いかけてくる。最初はことばしかわからない。そして、その最初のことばがなければ、そのあとを事実が追いかけてくることもできない。
 ふつうは逆に考えると思う。事実があって、それをことばで追いかけ、ことばで定着させる。
 でも、ほんとうは違うのだろう。事実を語ることばという便利なものはない。つまり事実に対応することばは、たいていの場合「手持ち」にはない。いま/ここにはない。人は誰でも新しいことに向き合い、そこでことばを失う。いままでのことばでは何も言えないことを知る。何も言えないのだけれど、とりあえず知っていることばを使って言ってみる。そして言い足りなかったことを少しずつつけくわえる。あるいは、どこかから自分の声を代弁してくれることばを借りてくる。そうやって、少しずつ何かがはっきりしてくる。
 阪神大震災のあと「出来事は遅れてあらわれる」と書いたのは季村敏夫(『日々の、すみか』書肆山田)であったが、大事件だけではなく、日々の暮らしのなかでも出来事は遅れて(後れて)あらわれる。やってくる。
 その「後れ」は「後れ」としてしか書きようがない。「後れ」てあらわれたものは、どう書いても、何かが違う。「後れ」ということだけが、この場合、事実になるのだ。

 その「遅れ」を早矢仕は、とてもおもしろい形で書いている。そこに、詩がある。

伯母の声の奥にあるものが 耳に響いていなかった

「暴れて」は具体的な「暴れて」の肉体をもち

 この2行の「耳」と「肉体」は、ほんとうはことばの「次元」が違うのだけれど、ともに「肉体」に属することばである。そして耳を澄ませば「声」もまた「肉体」であることがわかる。
 ことばは「意識」ではなく、「肉体」そのもののなかで動く。ことばにならないまま、何かが動く。ことばと肉体が離れ、肉体はことばに後れている--これを肉体は意識に後れていると言いなおすと、少しは早矢仕のことばの運動に近づくか。あるいは、意識は肉体に後れていると言った方がいいのか……。
 実は、あいまいである。
 ポイントは、ようするに「ずれ」である。肉体とことば(意識)がずれる。それは前後しながら「いま/ここ」をつかまえようとする。そして、その前後運動のなかで、ことばも豊かになるが、実は肉体も豊かになっている。
 「いま/ここ」を、なんといえばいいのだろう、別のことばで、別の態度で飲み込み、把握できるようになっている。
 「後れ」を取り戻し、それを追い抜いていく。
 こういうことが起きて、ほんとうに「出来事は遅れてあらわれた」と言えることになるのかもしれない。

伯母の庭のしだれ桜の満開の花
は遠くなったり 近くなったり
しながら頻りに匂った

 「遠くなったり 近くなったり」がとてもいい。肉体とことば(意識)の不思議な前後関係は、たしかに「遠くなったり 近くなったり」としか言いようがないのだろう。この不思議な運動を、早矢仕は「匂った」という嗅覚のなかで昇華させている。ここが、とても美しい。この美しさにたどりつくためには、私が先に「散文的」ということばで否定したものが必要なのだ。

 早矢仕の詩は、このあともう一度別の展開を見せるのだが、省略。少しだけ補足(暗示?)しておくと……。


この家で
あばれていたものたちが
満開の枝垂れ櫻の下で 束の間 ねむりこけている

 そこでも「ねむり」という肉体のありようが、どっしりと落ち着いている。眠りは、もちろん「意識」の眠りでもあるのだが、その意識は肉体のなかにある。意識ではなく、肉体そのものが「ねむりこけている」ということばで「もの」(手触り)として見えてくるところが私は好き。



 日原正彦「かけら」。その88。

一本の木は
何も言わない
言わないことで何かを言っている
と言うのは人間の小癪な解釈にすぎない

言うことが
言わないことであるように言うこと
人間にできるのはせいぜいそれくらいのこと

 えっ、と驚く。「言うことが/言わないことであるように言うこと」。そんなことがほんとうに人間にできるのだろうか。「人間にできるのはせいぜいそれくらいのこと」とはとても思えない。あの寅さんだって「それを言っちゃあおしめえよ」と言うくらいである。
 人間は、たぶん日原の観察とは逆に

言わないことが
言うことであるように言わないこと

 を通してしか生きられないのだと思う。
 じゃあ、なんのために詩を書くか、ことばを「言う」のか。
 矛盾だよね。
 でも、矛盾していることを知りながら、どうしてもそうしてしまうのがふつうの人間。寅さんのように「かわりもの」として受け入れられる人間(暮らしのなかで生きて行ける人間)は、生きていることが詩であるから詩を書かないだけ。

 「かけら86」

爪を切る
青い空の底で
かわいた音
それは 爪の悲鳴なのか
それとも爪切りの
歓声なのか

痛みがないので
わからない

 大嫌いだ。こういうことばは。「青い空の底で」というきどった言い方。「痛みがないので/わからない」というでたらめ。肉体ではなく頭でことばを動かすから「わからない」のである。肉体はわからないものに対してはことばを動かさない。
 こんな詩は破って捨てたい。





詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
ふらんす堂
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