壱岐梢『樹念日』(花神社、2012年07月01日発行)
壱岐梢『樹念日』は不思議な詩集である。読みはじめると、何かぼんやりした印象がある。このぼんやりは、まあ、どこかのおばさんが書いた詩らしきもの、と言い換えることができると思う。
巻頭の「きらきらと」。
この女は妊娠しているのかもしれない。新しいいのちを「光るもの」と呼んでいる。それを「宿している」。「宿している」は「妊娠している」を言いなおしたものである。こういう言い直しを「詩」と感じているのだと思う。
「妊娠」は「ふたくみ」ということばで言いなおされている。母と胎児、その「ふたくみ」。
たしかに、詩は、ある事実を別なことばで言い換えるときに生まれるのだけれど、それはそれでいいのだけれど、批判するようなことではないのだけれど。
あ、どうしようかなあ。
「現代詩」とはちょっと違うんだけれどなあ、というのが、私の感じた「ぼんやり」ということになるかもしれない。
この印象が「梅田事件」でがらりとかわる。
長いので引用しないが、無実の罪を着せられ、再審をへて無罪を勝ち取った梅田義光との交流を描いている。仮出所中の梅田は廃品回収をしている。新聞を集めにきたとき、壱岐の娘を抱き「めんこいな、たまんねえな」と言う。そのことがきっかけになって、ふたりは会話をするようになる。そして「俺にも、子どもはいたはずなんだ。俺、人を殺したっていわれて、十九年刑務所に入って、いま仮し出所中さ。驚かんでくれなあ、殺ってないから」。
こうした会話が自然に成り立つまでの経緯を壱岐は詳しくは書いていない。ただ「めんこいな、たまんねえな」という梅田の声に集約させている。これが、なんとも不思議である。
「抱っこする」ということば。抱くではなく、抱っこする。抱っこ、としか言えない(言い換えることができない)おじさんのしぐさ。そして、抱っこしながら「めんこいなあ、たまんねえな」という。その声。--そこに壱岐は梅田の正直を感じている。
そして梅田はまた、赤ん坊を抱っこしながら、こんなふうに自分を信じて娘を抱っこさせてくれる壱岐に正直を感じたのだろう。だから自分が刑務所にいたというようなことを言うことができたのだ。
正直と正直がであったとき、そこから人間が動きはじめる。
「道」ができる--と孔子なら言うかなあ。
まあ、めんどうなことはおいておいて……。
「抱っこ」--この、「きらきら」にはなかった、自然なことば。壱岐の肉体にしみついていることば、「抱っこ」するときの思想というとおおげさだけれど、「抱っこ」いがいに言い換えのきかない何かが、ひとをぐいと近づける。
「きらきら」のような、ちょっときどった表現を詩だと思って壱岐は詩を書いているけれど、あ、こんな正直を生きてきたんだと感じ、私はどきどきしてしまった。「めんこいなあ、たまんねえな」という梅田の、せつない声が聞こえるのだ。
壱岐の正直は、自分のことばにかえるときに、突然、他人にも伝わる。「神居町(かむいちょう)」という作品の1連目。
おたまじゃくしがご飯粒でのどをつまらせる--というようなことがあったとしても、ふつうは気にしないなあ、おとなは。あるいは、子どもでさえも。でも壱岐にはそのことが気になった。それは壱岐が赤ん坊を抱えていることと関係がある。小さないのち。そこで何が起きるか、壱岐ははっきりとは知らない。だからどんなことでも不安である。赤ん坊は何を食べたら、のどをつまらせることがないのか。ご飯粒は大丈夫? おたまじゃくしと赤ん坊を知らず知らずに、無意識に、つまり正直に、重ねてみている。
正直というのは、こういう無意識の、そのひとの肉体にしみついているもののことである。
こういう正直、肉体そのものからあふれてくる「仁」のようなもの(先に孔子と書いたので、なぜか、そんなことばがでてきてしまう)、仁というとおおげさだけれど、いのちを大事にする感じ、いつくしみ、おもいやり--そういう「人柄」は、他人にすーっと伝わるね。共感を呼ぶよね。この人、大好き、という気持ちが自然に生まれる。
私はその場に居合わせた「おばさん」ではないけれど、いやあ、よくわかるなあ。「人柄」というのは、なんともいえず気持ちがいいものである。
この「神居町」も、なんといえばいいのか、「現代詩」から見ると「現代詩」ではない(?)というようなものなのだけれど、そういうことを忘れてしまうね。「現代詩」であるかないか、あるいは「文学」であるかないか、そういうことは忘れて、すっーとことばに引き込まれていき、そこで壱岐に出合う。実際に壱岐に会ったことはないのだけれど、会った気持ちになる。肉体に触れた気持ちになる。これはいいなあ、と思う。
壱岐の正直がわかったあとで、「樹念日」に出合う。ここでは壱岐は、壱岐自身で書いているように「嘘」をつく。
いいなあ。「うつくしい嘘」が「うつくしい」ということばが邪魔にならないくらい美しい。これは正直な人間だけがつける嘘である。
正直な人間は、人間であることを超越する。「樹に融ける」、融けて一体になる。壱岐が融ける。そして樹も融ける。ふたりがとけて「ひとつ」になる。そのとき、その世界は、私たちが生きている世界を超えているから、「嘘」は嘘ではない。樹と人間が一体化した世界を動いている新しいことば、つまり、詩なのだ。正直がつかみとった、新しいことば、詩、そのものである。
2012年07月01日(まだ、なっていないのだけれど)は、壱岐梢の正直にであった「記念日」として記憶しよう。このブログを読んでいるみなさん。いまから注文すれば07月01日には詩集が届くかもしれない。ぜひ、壱岐と出合った「記念日」にしてみてください。
壱岐梢『樹念日』は不思議な詩集である。読みはじめると、何かぼんやりした印象がある。このぼんやりは、まあ、どこかのおばさんが書いた詩らしきもの、と言い換えることができると思う。
巻頭の「きらきらと」。
その女(ひと)はまっすぐ歩いてくる
雑踏の秋の
疲れ切った夜の空気を
すうっとかきわけ
光るものを宿しているのだ
この女は妊娠しているのかもしれない。新しいいのちを「光るもの」と呼んでいる。それを「宿している」。「宿している」は「妊娠している」を言いなおしたものである。こういう言い直しを「詩」と感じているのだと思う。
その女(ひと)からは
ふたくみの瞳や耳や心臓ごと
とてつもない大事に向かう
ふたくみの決意が
いっしょに流れてくるのだから
きらきらと光が放たれているのは
神秘などでは ない
「妊娠」は「ふたくみ」ということばで言いなおされている。母と胎児、その「ふたくみ」。
たしかに、詩は、ある事実を別なことばで言い換えるときに生まれるのだけれど、それはそれでいいのだけれど、批判するようなことではないのだけれど。
あ、どうしようかなあ。
「現代詩」とはちょっと違うんだけれどなあ、というのが、私の感じた「ぼんやり」ということになるかもしれない。
この印象が「梅田事件」でがらりとかわる。
長いので引用しないが、無実の罪を着せられ、再審をへて無罪を勝ち取った梅田義光との交流を描いている。仮出所中の梅田は廃品回収をしている。新聞を集めにきたとき、壱岐の娘を抱き「めんこいな、たまんねえな」と言う。そのことがきっかけになって、ふたりは会話をするようになる。そして「俺にも、子どもはいたはずなんだ。俺、人を殺したっていわれて、十九年刑務所に入って、いま仮し出所中さ。驚かんでくれなあ、殺ってないから」。
こうした会話が自然に成り立つまでの経緯を壱岐は詳しくは書いていない。ただ「めんこいな、たまんねえな」という梅田の声に集約させている。これが、なんとも不思議である。
古新聞を集めにくるたび、おじさんは、赤ん坊だった娘を抱っこする。
「めんこいなあ、たまんねえな」
「抱っこする」ということば。抱くではなく、抱っこする。抱っこ、としか言えない(言い換えることができない)おじさんのしぐさ。そして、抱っこしながら「めんこいなあ、たまんねえな」という。その声。--そこに壱岐は梅田の正直を感じている。
そして梅田はまた、赤ん坊を抱っこしながら、こんなふうに自分を信じて娘を抱っこさせてくれる壱岐に正直を感じたのだろう。だから自分が刑務所にいたというようなことを言うことができたのだ。
正直と正直がであったとき、そこから人間が動きはじめる。
「道」ができる--と孔子なら言うかなあ。
まあ、めんどうなことはおいておいて……。
「抱っこ」--この、「きらきら」にはなかった、自然なことば。壱岐の肉体にしみついていることば、「抱っこ」するときの思想というとおおげさだけれど、「抱っこ」いがいに言い換えのきかない何かが、ひとをぐいと近づける。
「きらきら」のような、ちょっときどった表現を詩だと思って壱岐は詩を書いているけれど、あ、こんな正直を生きてきたんだと感じ、私はどきどきしてしまった。「めんこいなあ、たまんねえな」という梅田の、せつない声が聞こえるのだ。
壱岐の正直は、自分のことばにかえるときに、突然、他人にも伝わる。「神居町(かむいちょう)」という作品の1連目。
ちいさな赤んぼつれて北の町に越した
あらかたのダンボールが片付いたら
近所のおばさんたちのお茶のみに呼ばれた
男の子がおたまじゃくしにご飯粒をやったので
のどにつまらないかな と言ったら
おはさんたちは顔を見合わせた
その日からだ
世話をやいてくれるようになったのは
おたまじゃくしがご飯粒でのどをつまらせる--というようなことがあったとしても、ふつうは気にしないなあ、おとなは。あるいは、子どもでさえも。でも壱岐にはそのことが気になった。それは壱岐が赤ん坊を抱えていることと関係がある。小さないのち。そこで何が起きるか、壱岐ははっきりとは知らない。だからどんなことでも不安である。赤ん坊は何を食べたら、のどをつまらせることがないのか。ご飯粒は大丈夫? おたまじゃくしと赤ん坊を知らず知らずに、無意識に、つまり正直に、重ねてみている。
正直というのは、こういう無意識の、そのひとの肉体にしみついているもののことである。
こういう正直、肉体そのものからあふれてくる「仁」のようなもの(先に孔子と書いたので、なぜか、そんなことばがでてきてしまう)、仁というとおおげさだけれど、いのちを大事にする感じ、いつくしみ、おもいやり--そういう「人柄」は、他人にすーっと伝わるね。共感を呼ぶよね。この人、大好き、という気持ちが自然に生まれる。
私はその場に居合わせた「おばさん」ではないけれど、いやあ、よくわかるなあ。「人柄」というのは、なんともいえず気持ちがいいものである。
この「神居町」も、なんといえばいいのか、「現代詩」から見ると「現代詩」ではない(?)というようなものなのだけれど、そういうことを忘れてしまうね。「現代詩」であるかないか、あるいは「文学」であるかないか、そういうことは忘れて、すっーとことばに引き込まれていき、そこで壱岐に出合う。実際に壱岐に会ったことはないのだけれど、会った気持ちになる。肉体に触れた気持ちになる。これはいいなあ、と思う。
壱岐の正直がわかったあとで、「樹念日」に出合う。ここでは壱岐は、壱岐自身で書いているように「嘘」をつく。
いっぽんの樹に
立ち寄ります
青葱や薬や洗剤
さまざまなものが
ざくざく詰まった袋を
足もとに置きます
幹に手をまわし
陽がさして
木漏れ日にくるまれたら
樹に解けてもよいのです
幹に耳をあてれば
こくん こくん
樹が水をのむ音が
あざやかに聞こえる
そんなうつくしい嘘を
たくさん たくさん ついて
声をあげて
笑ってよいのです
いっぽんの樹に
耳をよせる
こくん こくん こくん
樹がしずかに
水をのんでいる
いいなあ。「うつくしい嘘」が「うつくしい」ということばが邪魔にならないくらい美しい。これは正直な人間だけがつける嘘である。
正直な人間は、人間であることを超越する。「樹に融ける」、融けて一体になる。壱岐が融ける。そして樹も融ける。ふたりがとけて「ひとつ」になる。そのとき、その世界は、私たちが生きている世界を超えているから、「嘘」は嘘ではない。樹と人間が一体化した世界を動いている新しいことば、つまり、詩なのだ。正直がつかみとった、新しいことば、詩、そのものである。
2012年07月01日(まだ、なっていないのだけれど)は、壱岐梢の正直にであった「記念日」として記憶しよう。このブログを読んでいるみなさん。いまから注文すれば07月01日には詩集が届くかもしれない。ぜひ、壱岐と出合った「記念日」にしてみてください。