詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河邉由紀恵「あま水」

2012-07-30 10:24:43 | 詩集
河邉由紀恵「あま水」(「どぅるかまら」12、2012年06月10日発行)

 河邉由紀恵「あま水」は「雨水」あるいは「天水」なのかもしれないが、私には「あまい(甘い)水」のように感じられる。

あま水がびたらたら

と南の窓をつたいおちてくるひるま
りん月のむすめがこの家の二階でうとりうとりして
いるから重いおもい春がおもいミモザの花のつぼみ
がふくらむうちに

私たちは似てきている

 書き出しは「雨水が(び)たらたらと、南の窓を伝い落ちてくる昼間」と書き直すと、雨が降っていて、その雨が南の窓を伝い落ちてくる風景が見える。時刻は昼間。明るい光--かどうかはわからないけれど、まあ、暗くはない情景である。「臨月の娘」が「二階でうとりうとり」昼寝をしているのだろう。けだる、重い感じ。ミモザの黄色い色が春の雨にぼんやりと濡れている。そのぼんやりが、膨らんだ感じに見えるのは、臨月の娘の肉体の感じが反映しているからかもしれない。
 --というのは、普通の読み方なのだろうと思う。「臨月」「つぼみ」「ふくらむ」「重い」が重なるようにしてことばの「あいまいな」領域を広げていく。
 「うとりうとり」は「うとうと」「こくりこくり」がいっしょになったものかなあ。ちょっと変(?)だけれど、まわりのことばの少しずつ変(?)なものに影響されているので、それほど変とは感じず、「うとりうとり」を受け入れてしまい、やっぱり春の情景、とぼんやりと感じるのだが。

 でも、私がこの作品を読んで、おもしろいなあと思ったのは、そういうことではなくて。いや、そういことなのかもしれないが。

あま水がびたらたら

 この書き出しというか、「あま水」。その「あまい」感じ。これは、砂糖の甘さという「味覚」の問題ではなく、その「甘い(甘さ)」のもっていることばの、あいまいさと関係しているのだが。
 (どうも、きちんとしたことばでは言えない。)
 「あまい」は「甘い」。砂糖の「甘さ」が、まあ、代表的な「意味」なのだろうけれど、ほかに「ゆるやか」というような意味がある。厳しくない。チェックがあまい。戸締りがあまい。意識があまい。
 で、それが、

あま水がびたらたら

 とつづくとき、私には「雨水が、びたらたら」ではなく「雨水(あえて漢字で書いておく)」「がびたらたら」と奇妙な形にことばがねじれる。「びたらたら」ということばを私は知らないからかもしれない。(そういうことばを私はつかわない。)
 じゃあ、「がび」ということばをつかうのかといわれれば、つかわないのだけれど。
 なぜ、そんなふうに感じるのかわからないけれど、どうも「雨水が(び)たらたら」という具合には、つまり、意味が通じるようには読みたくない、という気分にさせられるのである。

 ここには、ふつうのことばではないことばが書かれているぞ、と感じる。そのふつうじゃない、が、詩なのである。
 ことばは「意味」の厳格さを逃れて、「あまい」部分で動いている。その、厳格を無視したところに、変な言い方になるが、私は「肉体」を感じるのである。
 「肉体」というのは、精密なものだけれど、同時に「あいまい」というか「あまい」というか、ゆったりしたところがある。わけのわからないものをのみこんで消化してしまうところがある。
 それが冒頭の1行からはじまっている。
 「うとりうとり」については先に書いたけれど、「りん月」という表現も、みょうにあいまいである。「臨月」でいいはずなのに、そう書かない。「隣月」なのかもしれない。「臨む」と「隣り」は、どこか似ている。「臨海」とは海に臨んだ場所だが、それは海の「隣り」でもあるからね。で、「臨月」というのは出産が近づいた月だけれど、この近づくは「隣り」にくる、すぐつながっている、という意味でもあるからね。
 そして、この「臨=隣」は、娘と母との「接続」と「切断」の感じにも通じるなあ。

私たちは似てきている

 ではなくて、「臨=隣」という形で「一体」になるということだろう。だからこそ、次の連で、

ゆりゆりと花つぼをゆらせて
階段を降りるのがむすめなのか私なのかよくわから
ないけれど

 ということばがやってくる。
 この区別のなさ--これは、やはり「あまい(甘さ)」だね。

なの花のにおいぬるんで

春のあま水がとっぷりと
この家をぬらすなんねんもなんねんもぬらしている
いけないいけないあま水のなかであおい茎がのびて
ゆくつめたい魚が泳ぎだす

 「ぬるんで(ぬるむ、ぬるい)」も「あまい」に通じるなあ。あいまいである。
 そして。
 「なの花」が、「あま水」「りん月」のように、あいまいである。「菜の花」を想像すべきなのだろうけれど、「なんの花」と思ってしまう。菜の花でいいの? 
 その前にでてきた「ゆりゆりの花つぼ」の「ゆりゆり」って何? 百合を連想してしまうなあ。ミモザ(黄色)の花の「つぼみ」、ゆりゆり(百合の複数形?、白い色)の花の「つぼ」み? 百合のつぼみは細長い壷のようでもあるなあ。
 黄色→白と動いたものが、「菜の花」と黄色にもう一度もどる?
 なんの花かわからないけれど、黄色でも白でもない色になってほしいなあと思うから「菜の花」ではなく「何の花」と読んでしまうのかもしれない。

 ほんとうは、もっと違うことを書きたい。

なの花のにおいぬるんで

 変な一行だよねえ。なぜ変なのかなあ。主語を指し示す「助詞」がないからだ。「菜の花のにおい(が)ぬるんで」の「が」がない。
 そして、そのかわりに「な行」のゆれうごきがある。「な」の花の「に」おい「ぬ」るんで。
 うーん、なんだか、ことばが「ぬるぬる」といっていいのか「ぬらぬら」といっていいのか「ぬめぬめ」といっていいのか、変な感触になってくる。さわっている感じがあるけれど、向こう側から「厳格な」何か、固体の明確さがつたわってこない。
 何かが逃げていく。
 「ぬらすなんねんもなんねんもぬらしている」を「濡らしている何年も何年も濡らしている」と書いてしまうと、何か違ってくる。
 ぬらしてぬらして、ぬらすなんて、「いけないいけない」とわかってるけれど、「あま(い)」誘惑があるなあ。そのなかで「あおい(あまい)」何かがのびる、つまり育っていく……。

 そんなことは書いてませんよ--と河邉はいうだろう。
 でも、私はそんなふうに「誤読」したいのだ。そんなふうに「誤読」するとき、ことばの肉体をとおして、河邉の肉体が見えてくる--というのは「厳格な解釈」ではなく、私の「幻覚」なのだが。

 ちょっと脱線して……。
 私の「現代詩講座」では、よく、このことばを自分のことばで書き直す(言いなおす)とどうなる? という質問を受講生にしてみる。
 河邉の詩には、わかったような、わからないようながつまったことばがたくさん出てくる。「びたらたら」「うとりうとり」も、「河邉語」から「日本語」に翻訳するとどうなるかな? そのことは、もう書いたので。
 私が聞きたいのは。

春のあま水がとっぷりと

 この「とっぷり」。
 さあ、何といいなおしてみます?

 最終連も変ですよ。

うぼうぼうぼとあま水を
すいながらこの家をゆっくりと泳いでいるそれから
南の窓の下にうずくまりそのふところにやわらかな
ふたごをうんでゆく

 「うぼうぼうぼ」はわけがわからないけれど、最後の「うんでゆく」。これは? 「産んで行く」「倦んでゆく」。どっちでしょう。
 「意味」としては「産んで行く」なのだろうけれど、そこに「倦んで」が重なる。そうすると、ことばが妙に「あいまい」になる。あまくなる。ぬるくなる。
 そこが、おもしろいんだね。



 書き損ねたことの「補足」。
 今回の私の引用は全行ではない。同人誌で確かめてもらいたいのだが、1行+4行+1行+4行、という形式がある連の構成になっている。さらに4行の連は、中央の2行が文字の数が同じで長い。前後の行は中央の行より文字数が少ない。そういう「定型」になっている。この「定型」をまもるために、ことばが余分につかわれたり、造語(?)がつかわれたりしている。
 形の明確さ、それに反して音の(意味の)不明確さ。
 ふたつが交錯しながら、うーん、変だなあと思う。その「変」の部分が、河邉なのだ。

 (5月-7月は、福岡大病院、慈恵会医科大病院、滋賀医科大病院と「検診」行脚をしたが、結局、私のような症状を訴えてくる人はいないようで、対処方法がわからないまま。「詩はどこにあるか」も飛び飛びになってしまったが、8月からは、なんとか休まずに「日記」を書きつづけたい。)




桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
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