詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田守監督「おおかみこどもの雨と雪」(★★★★★)

2012-07-25 10:15:14 | 映画

監督 細田守 出演(声)宮崎あおい

 予告編のときから、これは傑作、わくわく、見たい見たい見たい見たい見たいという感じでドキドキしていたのだが、実際に見て、見せたい見せたい見せたい見せたい見せたいと叫びたくなる。だれに対しても、見て見て見て見て見てと言いたくなる。
 どこを取り上げてもいいのだけれど、予告編から大好きだった雪のシーン。真っ白な、だれも足跡をつけていない雪の山で子どもたちと母親が遊び回るシーンがすばらしい。走り回っているうちに、子どもたちが野生にかえり(?)、おおかみになる。走るだけではなくサーフィン(?)みたいに雪を滑る。スキー、いやスノーボードという方が適当なのかもしれないけれど、どうもそれとは違う。スキー、スノーボードだと、ほら、雪にあいすぎるでしょ? そうではなくて、それは雪であるけれど雪ではない。まったく新しい自然。だから、雪山でやるサーフィン。(まあ、スノーボードを思いついたひとは、ゲレンデでサーフィンしようと思ってなのかもしれないけれど。)このときのリズム感、スピード感がとてもいい。いっしょにスクリーンのなかで遊び回りたい。
 あの斜面はあそこの山、あの木はあの山の木、あの川、あの水の冷たさは、あの川--と昔遊んだ野山のすべてが思い出される。絵かかれている雪山のすべてを見た記憶がある。50年前の私に戻ってしまう。映画の舞台が私の古里に近いこともあるのかもしれないけれど。
 それから、このときの青空が実にすばらしい。大雪のあと、この映画が舞台になっている富山では、空がこの映画のように群青色に透明になる。夏の太陽で汚れてくすんだ青ではなく、ほんとうにどこまでも群青色に透き通り、昼までも星が見えるのじゃないくらいに完璧な深さとして広がる。空気中の水蒸気(水分)を全部雪にして降らせたために、もう空中には湿度というものが存在しないかのような、完璧な輝き。うれしくてドキドキする。
 この雪遊びにはまた危険もひそんでいて、そこからこの映画は大きく変化するけれど、その変化も、自然の厳しさと本能のようなものがしっかりかみ合っていて、ぐいぐい引き込まれる。あらゆる瞬間に、人間の「本能(いのちの原型)」が自然そのものと出合い、そこで新しくなっていく。新しい欲望、そして新しい反欲望というか、抑制。そのせめぎあい、せめぎあいとも感じずに選び取る何か。--そういう子どもの成長というか、自分自身を選んでいく過程を、そして母親は見守る。そういうことを、まあ、書きはじめるとめんどうくさいことを、とてもていねいに描いているのだが、これは書くまい。
 雨と雪が、自然や周囲のひとと触れあうことで、どんどん「本能」に目覚める。そこには「はずかしい」というような気持ちさえも「本能」として描かれている。雪が「野性児」からどんどん少女にかわっていく。逆に雨の方は、どんどんことばを否定して自然の、ことばではない世界へ入っていく。そうすることで家族のバランスも変化していく。まあ、これも書くと、めんどうくさい。だから書かない。
 ただ、何かに出合いながら、子どもがどんどん変わる。そしてその変わって行く先は、どんなふうに見えようとも、その子どもの「自然=本能」である。そして、それが「道」になる。「道」というのは、まあ、「論語」の「道」なのだけれど。別のことばで言えば「生き方」なのだけれど。それを親は、その「自然=本能=道」がそのままどんどん拡大され、自由をつかみとるよう祈る、そうなるよう応援するだけなのだが。それしかできないのだが。
 いやあ、なんといえばいいのだろう。あ、私の両親もきっとこんなふうにして私を見ていたのだろう、といまごろになって思うのである。ちゃんと、私は私の「自然=道」をみつけて歩いているかな? そんなことも思わず自問してしまう。子どもには子どもの見方があって、まあ、私のような感想は、とりあえずは持たないだろうけれど、いつか同じように思うかもしれない。--これはまた、余分なことなのだけれど、言いなおせば、子どもにはこの映画の、大人に向けたメッセージはわからないだろう。でも、それでいいのだと思う。たとえ子どもにわからないものでも、そういうものがあるのが「世界」というものなのだから、それを大切にストーリーの中に組み込んでおく。気づかなくてもいい。そういう映画づくりの姿勢もいいなあ。あ、こういうことも書くと「うるさい」ね。書くまい。もう書いてしまったけれど。

 少しだけ、補足。
 映画を見るとき、自然の描き方と登場人物の描き方に、ちょっと注意してみてください。とても変わっている。
 この映画は、自然をとてもリアルに描いている。雪も雨も、森も、アニメを超えている。ところが、人物はとても簡略化されている。ポスターはポスターの都合でそうしているのかもしれないが、この映画に登場する人物の描写は、簡単に言うと平面的である。立体感がない。影さえ描かれていない。線の輪郭があり、その輪郭の内部は一色の色である。昔のテレビアニメのような印象である。(最近見ていないのでわからないのだが、「サザエさん」がそういう絵である。--印象で書いているので違っているかもしれない。)
 で、このすっきりした人間の絵(アニメ)が、実にいい感じなのだ。この映画に描かれていることはほんとうは重い重いことがらなのだが、それを軽く、スピーディーに見せる。観客の視線を立ち止まらせない。映画のなかで何度か「おとぎ話」「童話」というような表現がつかわれているが、映画を「おとぎ話」「童話」にしてしまう力が、その簡略なアニメにこめられている。大切なことがら、重いテーマを「異化」して、ぐいとひっぱっていく力がある。これが今風の3Dアニメでリアルに描かれてしまうと、登場人物の「心理」が重たくなってしまう。引き込まれすぎて、自分自身の問題と区別がつかなくなってしまう。「絵」であるとはっきりわかるからこそ、そのなかで動いているあらゆるものを安心して見ることができるのである。大人である私でさえそうなのだから、子どもにとっては、この「絵」であることが明確なアニメは、とても安心感があると思う。安心してみることのできる表現になっていると思う。


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