松岡政則『口福台湾食堂紀行』(思潮社、2012年06月30日)
松岡政則『口福台湾食堂紀行』の作品群については雑誌に発表されたときに何回か感想を書いた記憶がある。同じことを書いてしまうかもしれないが、「口福台湾食堂紀行」がとてもいい。(タイトルを含めて、「繁体字」が出てくるが、引用はすべて日本でふつうに使っている漢字で代用。)
1行目。ぶっきらぼうに、そのまま投げ出されたことばが、とても強い。むきだしのまま、そこにある--を通り越して、ことばの内部、つまり肉体(思想)が見える、という感じがする。
思想(肉体)というのは、2行目の「ひとのかたち」である。
「かえっていく」が、それを後押しする。
どこか、肉体の外にある「思想」ではなく、肉体の内部にしっかりからみついている思想。それは「かえる」ことでしかつかみだせない。「むきだし」ではなく、内部に侵入して、それをしっかりつかむ。
「なにかが助かっているような気がする」は、「間違わずにすんでいる」ということかもしれない。
「歩いておりさえすれば」は無心になって「歩く」に集中していれば、であろう。歩くことで無心になる。そうすると、間違えない。間違えないことで、助かる。--これは消去法かもしれないが、「歩くとめし。」という1行目の剛直なことばが、消去法以上の何かを感じさせる。
無心になるとは、別なことばで言えば、余分なものを捨てることである。「荒物屋、焼き菓子屋、飾り札屋、」そこにあるものを、そこにあるもとして認識して、ことばにする。そうすることで、松岡は自分の肉体のなかにあるそのことばを捨てる。そのことばとともにかかえこんでいるものをひとつひとつ捨てていく。
「漫波魚(マンボウ)の切り身/繁字体のにぎわいにもやられる」は松岡の知っている「マンボウ」が台湾の表記「漫波魚」と出合い、その漢字のなかに投げ込まれ、捨てられるということである。人は何かと出合い、出合いをとおして、自分が身につけている余分な(?)ものを捨てる。そうやって、無心になっていく。
出合いとは無心になる方法であり、その先に思想(肉体)が、遅れてあらわれる。
なぜ、「からだによい」か。余分なものを脱ぎ捨てるのを手伝ってくれるからだ。
「あおぞち床屋みたい」のの「みたい」が、松岡の肉体へ「かえっていく」姿をくっきりとあらわしている。それはほんとうは「あおぞら床屋」というものではないかもしれない。けれど、松岡は「あおぞら床屋」というふうに覚えていた。それが、いまそういうものと出合い、松岡からはぎとられる。「ながい線香」も同じ。それは台湾の人にとっては「ながい」ものではなく、ふつうかもしれない。その長さを「ながい」と感じる松岡が、その線香と出合うことではぎとられる。そうやって「ひとのかたちにかえっていく」。
ことばはいらない。肉体はことば以外に大切なものをもっている。「態度」。それは「ひとのかたち」である。ひとがひとと出合うときの「かたち」。「からだ」のかたち。私は安全です、危害を加えません。それが「あいさつ」の始まり。
わからないことばは脱ぎ捨てる。知っていることばも脱ぎ捨てる。そうすると、「態度」が残る。「態度」は思想(肉体)なのだ。
この発見までの動きが、とてもしっかりしている。ぶらつきがない。とてもいい詩だと思う。
「ひかり」とは「思想」のことである。洗おうとして、そのままになっている食器。そこにある暮らし。暮らしのなかにある時間。それは、やはりなにかと出合いながら、自分自身を脱ぎ捨てるようにして変化していく。そうして、絶対に捨てられないものにまでたどりつく。思想にまでたどりつく。そうして、そこから肉体は動きはじめる。「態度」になる。
このとき「ことば」は問題ではない。「声」が大切である。「声」とは「肉体」から飛び出して、誰かに触れる力を持った思想そのものである。
松岡は「声」を「聲」と書いている。「聲」のなかには「耳」がある。声は一方的に誰かが出すものではなく、それを耳で受け止めて、初めて声になるのかもしれない。そういう思いが、この漢字には含まれているかもしれない。そしし、そのとき「耳」とは肉体の一部の器官であるというよりも、「態度」である。誰かを受け止めるという「態度」である。
ここから、「あいさつ」が始まる。声を出す。受け止める。「意味」は、まあ、適当にわかるものである。だからこそ、
日本語でもかまうことはない
肉体の思想で人と出合うとき、実際、何語であろうがひとはひとと出合える。松岡は台湾を旅行することで「肉体(思想)」を確実なものにしている。その手応えがあらゆる行から立ち上がってくる。
松岡政則『口福台湾食堂紀行』の作品群については雑誌に発表されたときに何回か感想を書いた記憶がある。同じことを書いてしまうかもしれないが、「口福台湾食堂紀行」がとてもいい。(タイトルを含めて、「繁体字」が出てくるが、引用はすべて日本でふつうに使っている漢字で代用。)
歩くとめし。
それだけでひとのかたちにかえっていく
歩いておりさえすれば
なにかが助かっているような気がする
1行目。ぶっきらぼうに、そのまま投げ出されたことばが、とても強い。むきだしのまま、そこにある--を通り越して、ことばの内部、つまり肉体(思想)が見える、という感じがする。
思想(肉体)というのは、2行目の「ひとのかたち」である。
「かえっていく」が、それを後押しする。
どこか、肉体の外にある「思想」ではなく、肉体の内部にしっかりからみついている思想。それは「かえる」ことでしかつかみだせない。「むきだし」ではなく、内部に侵入して、それをしっかりつかむ。
「なにかが助かっているような気がする」は、「間違わずにすんでいる」ということかもしれない。
「歩いておりさえすれば」は無心になって「歩く」に集中していれば、であろう。歩くことで無心になる。そうすると、間違えない。間違えないことで、助かる。--これは消去法かもしれないが、「歩くとめし。」という1行目の剛直なことばが、消去法以上の何かを感じさせる。
荒物屋、焼き菓子屋、飾り札屋、
小さな商店がならんでいる
路につまれたキャベツや泥ネギ
魚屋をのぞけば漫波魚(マンボウ)の切り身
繁字体のにぎわいにもやられる
無心になるとは、別なことばで言えば、余分なものを捨てることである。「荒物屋、焼き菓子屋、飾り札屋、」そこにあるものを、そこにあるもとして認識して、ことばにする。そうすることで、松岡は自分の肉体のなかにあるそのことばを捨てる。そのことばとともにかかえこんでいるものをひとつひとつ捨てていく。
「漫波魚(マンボウ)の切り身/繁字体のにぎわいにもやられる」は松岡の知っている「マンボウ」が台湾の表記「漫波魚」と出合い、その漢字のなかに投げ込まれ、捨てられるということである。人は何かと出合い、出合いをとおして、自分が身につけている余分な(?)ものを捨てる。そうやって、無心になっていく。
出合いとは無心になる方法であり、その先に思想(肉体)が、遅れてあらわれる。
あおぞら床屋みたいなのがあった
ながい線香をつんだ荷車が停まっていた
ここでみるものはみなからだによい
なぜ、「からだによい」か。余分なものを脱ぎ捨てるのを手伝ってくれるからだ。
「あおぞち床屋みたい」のの「みたい」が、松岡の肉体へ「かえっていく」姿をくっきりとあらわしている。それはほんとうは「あおぞら床屋」というものではないかもしれない。けれど、松岡は「あおぞら床屋」というふうに覚えていた。それが、いまそういうものと出合い、松岡からはぎとられる。「ながい線香」も同じ。それは台湾の人にとっては「ながい」ものではなく、ふつうかもしれない。その長さを「ながい」と感じる松岡が、その線香と出合うことではぎとられる。そうやって「ひとのかたちにかえっていく」。
黒糖饅頭ふつたください!
蒸籠の蓋をとりながら
阿婆がなにか言ったけどわからない
わからない、も愉しい
あいさつがあってよかった
あいさつとは態度のことだろう
ことばはいらない。肉体はことば以外に大切なものをもっている。「態度」。それは「ひとのかたち」である。ひとがひとと出合うときの「かたち」。「からだ」のかたち。私は安全です、危害を加えません。それが「あいさつ」の始まり。
わからないことばは脱ぎ捨てる。知っていることばも脱ぎ捨てる。そうすると、「態度」が残る。「態度」は思想(肉体)なのだ。
この発見までの動きが、とてもしっかりしている。ぶらつきがない。とてもいい詩だと思う。
「満腹食堂」にはだれもいなかった
聲はつけっぱなしのテレビだった
カウンターに洗いものの粥碗や
大皿がかさねられたままになっている
それが、なんかまぶしかった
こんなのがいつか
ひかりになるのだろうと思った
日本語でもかまうことはない
ごめんください!
「ひかり」とは「思想」のことである。洗おうとして、そのままになっている食器。そこにある暮らし。暮らしのなかにある時間。それは、やはりなにかと出合いながら、自分自身を脱ぎ捨てるようにして変化していく。そうして、絶対に捨てられないものにまでたどりつく。思想にまでたどりつく。そうして、そこから肉体は動きはじめる。「態度」になる。
このとき「ことば」は問題ではない。「声」が大切である。「声」とは「肉体」から飛び出して、誰かに触れる力を持った思想そのものである。
松岡は「声」を「聲」と書いている。「聲」のなかには「耳」がある。声は一方的に誰かが出すものではなく、それを耳で受け止めて、初めて声になるのかもしれない。そういう思いが、この漢字には含まれているかもしれない。そしし、そのとき「耳」とは肉体の一部の器官であるというよりも、「態度」である。誰かを受け止めるという「態度」である。
ここから、「あいさつ」が始まる。声を出す。受け止める。「意味」は、まあ、適当にわかるものである。だからこそ、
日本語でもかまうことはない
肉体の思想で人と出合うとき、実際、何語であろうがひとはひとと出合える。松岡は台湾を旅行することで「肉体(思想)」を確実なものにしている。その手応えがあらゆる行から立ち上がってくる。
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