粕谷栄市「西片町」(「歴程」580 、2012年07月10日発行)
粕谷栄市「西片町」は、マンネリ作品である。いつもと同じことが、いつもと同じように書かれている。
「何もしない」「何もすることがない」「したいことがない」。「ぼんやり」と何かを「眺めていたい」。そして、そこでは「片肘をついて」ということばが繰り返される。「寝転んで」は「横になって」と言いなおされる。「夏の日」は「朝顔」と言い換えられて説明される。
同じことばを何度も使い、「何もすることがない」「したくない」を少しずつふくらませている。
そうして、
何もすることがないまま、「よく知らない」だれか、何かのことを考える。これも粒来のこれまでの一連の作品と変わらない。「よく知らない」くせに、「色が白くて、小さい尻をしている」とよく知っていることが紛れ込んでくる。それはほんとうに知っていることなのか、そうあってほしいと思っているから、思っていることに合致したものをみつけだしてきた結果なのか、よくわからない。
で、この不思議な「現実」感覚から少しずつずれて行って、最終段落。
死と幻と夢。区別が相変わらずつかない。そういう境地へたどりつく。何度こういう作品を読んできたかわからない。何も変わらない。マンネリである。
と、いう具合に批判するのは、とても簡単。
しかし、実は、そういうことではないのだ。
粕谷はたしかに同じこと(抽象化すれば、区別のつかないパラレルなことばの運動)を繰り返し繰り返し書いているのだが、繰り返しのなかで人間がたしかになっていくのである。すこしずつ膨らんできて、重さを増して、動かない「手応え」のようなものになっていくのである。
きのう読んだ相沢正一郎の詩では、清少納言が反復されていた。反復することで、相沢は清少納言になり、また相沢の父も清少納言になる--と同時に、歴史をこえる(歴史をわかる、時間をわたる)人間になる。そして、そのときのことばは、やはり歴史を超え、時間をわたる--つまり、永遠、というものが一瞬、そこに見えてくる。
「興ざめしたり」「怒ったり」ということが、「ある」というものに変わる。この「ある」というものを、別のことばで言うのはむずかしくて、いまの私にはできないのだが、私はようするに、そこに「興ざめする」とか「怒る」という「動詞」が動くのを感じる。動くことによって、動詞が動詞になる--その「いま/ここ」を感じる。
それと同じようなことが、粕谷のことばの運動から感じるのである。死と夢と幻が「ある」。そういうものを私も一瞬夢想することがあるし、そういう詩も粕谷の真似をして書いてみたことがあるように記憶しているが、私は粕谷のように、それを繰り返せない。マンネリにできない。あきてしまう。しかし、粕谷は、そういうことにあきない。それしかないのだ。そうして、その繰り返しによって、粕谷は詩人になるから、詩人で「ある」にかわる。詩は、そのとき、不思議な光につつまれる。ことばなのに、ことばを超えて、何か「ある」ものに「なる」。そして、そこに「ある」。
私のことばは説明足らずだと思うけれど。私は、まだ、そのことを適当なことばでいうことができないのだけれど。
そういう「ある」は、あるのだと思う。
そういう「ある」を感じさせてくれる詩は、詩人は、おもしろい。繰り返されているのは、基本的な「動詞」、ことばの運動--そのエネルギーが「ある」のかもしれないなあ。「ある」エネルギーを感じるとき、どきどきするなあ。それを感じたくて、詩を読むのだなあと思う。
粕谷栄市「西片町」は、マンネリ作品である。いつもと同じことが、いつもと同じように書かれている。
夏の日、涼しい縁側で、片肘をついて、寝転んでいた
い。久しぶりに、おふくろのいる家に戻って、何もしな
いで、ゆっくりしていたい。
一人前の左官職人になって、間もない私は、その日は、
仕事の休みの日だ。何もすることがないし、したいこと
もない。ただ、ぼんやり、横になって、片肘をつき、垣
根に咲いている、青い朝顔の花を眺めていたいのだ。
「何もしない」「何もすることがない」「したいことがない」。「ぼんやり」と何かを「眺めていたい」。そして、そこでは「片肘をついて」ということばが繰り返される。「寝転んで」は「横になって」と言いなおされる。「夏の日」は「朝顔」と言い換えられて説明される。
同じことばを何度も使い、「何もすることがない」「したくない」を少しずつふくらませている。
そうして、
考えていることといえば、まだ、よく知らない娘のこ
とだ。娘は、たしか、自分と同い年で、片西町の蕎麦屋
につとめている。色が白くて、小さい尻をしている。
何もすることがないまま、「よく知らない」だれか、何かのことを考える。これも粒来のこれまでの一連の作品と変わらない。「よく知らない」くせに、「色が白くて、小さい尻をしている」とよく知っていることが紛れ込んでくる。それはほんとうに知っていることなのか、そうあってほしいと思っているから、思っていることに合致したものをみつけだしてきた結果なのか、よくわからない。
で、この不思議な「現実」感覚から少しずつずれて行って、最終段落。
思えば、この私には、一生、そんな日はないのだけれ
ど。夢のなかの西片町の蕎麦屋に行くこともないのだけ
れど。もう、とっくに死んでいて、どこかの寺の墓石の
下で、若い左官屋の幻をみているのだけだけれど。
死と幻と夢。区別が相変わらずつかない。そういう境地へたどりつく。何度こういう作品を読んできたかわからない。何も変わらない。マンネリである。
と、いう具合に批判するのは、とても簡単。
しかし、実は、そういうことではないのだ。
粕谷はたしかに同じこと(抽象化すれば、区別のつかないパラレルなことばの運動)を繰り返し繰り返し書いているのだが、繰り返しのなかで人間がたしかになっていくのである。すこしずつ膨らんできて、重さを増して、動かない「手応え」のようなものになっていくのである。
きのう読んだ相沢正一郎の詩では、清少納言が反復されていた。反復することで、相沢は清少納言になり、また相沢の父も清少納言になる--と同時に、歴史をこえる(歴史をわかる、時間をわたる)人間になる。そして、そのときのことばは、やはり歴史を超え、時間をわたる--つまり、永遠、というものが一瞬、そこに見えてくる。
「興ざめしたり」「怒ったり」ということが、「ある」というものに変わる。この「ある」というものを、別のことばで言うのはむずかしくて、いまの私にはできないのだが、私はようするに、そこに「興ざめする」とか「怒る」という「動詞」が動くのを感じる。動くことによって、動詞が動詞になる--その「いま/ここ」を感じる。
それと同じようなことが、粕谷のことばの運動から感じるのである。死と夢と幻が「ある」。そういうものを私も一瞬夢想することがあるし、そういう詩も粕谷の真似をして書いてみたことがあるように記憶しているが、私は粕谷のように、それを繰り返せない。マンネリにできない。あきてしまう。しかし、粕谷は、そういうことにあきない。それしかないのだ。そうして、その繰り返しによって、粕谷は詩人になるから、詩人で「ある」にかわる。詩は、そのとき、不思議な光につつまれる。ことばなのに、ことばを超えて、何か「ある」ものに「なる」。そして、そこに「ある」。
私のことばは説明足らずだと思うけれど。私は、まだ、そのことを適当なことばでいうことができないのだけれど。
そういう「ある」は、あるのだと思う。
そういう「ある」を感じさせてくれる詩は、詩人は、おもしろい。繰り返されているのは、基本的な「動詞」、ことばの運動--そのエネルギーが「ある」のかもしれないなあ。「ある」エネルギーを感じるとき、どきどきするなあ。それを感じたくて、詩を読むのだなあと思う。
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