監督 アスガー・レス 出演 サム・ワシントン、エリザベス・バンクス、エド・ハリス
とても古くさい映画である。ふたつのビルがあり、ひとつのビルでは男が飛び下り自殺をしようとしている。これは実は「おとり」で、ほんとうのストーリー(?)は隣のビルでのダイヤモンド強奪。もちろん、狂言自殺を計画した男が犯行の主役である。
で、この二重構造に、自殺しようとした男が実は無実である。警官なのだが、ダイヤモンド強盗に仕立てられ、いまは脱獄中という事情が重なる。そして、その強奪したはずのダイヤモンドは、実は隣のビル(被害者がオーナー)の金庫にあるはずだから、それを奪い返して無実を証明するという二重構造が重なる。
さらに、主役の男がダイヤモンド強盗の犯人に仕立て上げられたのは、同僚の裏切りがあったからである。同僚は二人いて、ひとりは主人公の親友であり、もうひとりは隣のビルのオーナーの用心棒(?)をやっているという「裏切り」の構図が重なる。
さらにさらに。この自殺願望の男を説得しようとする刑事(女性)は、実は男が「指名」したのだが、なぜ指名したかというと、最近、自殺願望の男を説得しようとして失敗したという過去があり、彼女なら野次馬テレビの注目を浴びるに違いないという男の「読み」が背後にある。テレビも、野次馬も、みんな男に引きつけておいて、隣のビルの犯行(男にとっては無罪証明)をスムーズにやりとげようとする手段だね。
さらに。 と、書いていくと、きりがないことはないのだが、まあ、面倒くさい。だから省略して……。
ようするに、この凝りに凝った何重もの(しかし、ほんとうは二重に収斂してしまう)構造を、この映画は実に手際よく映像化している。台詞もあるにはあるのだが、台詞のないところがスピーディーで、まさに映画。--というと変だけれど、ほら、最近の「映像体験」とやらは、やたらと絶対に見ることのできないシーンの連続を売り物にしているが、この映画は違う。
たとえば、主人公の男が逃走の過程で、隠れ家(ほんとうは父親が準備したもの)から大金をポケットにしまい込む。それはしかし誰かを買収(?)するためのものでもなければ、海外へ逃亡するためのものでもない。男は、その金をビルの庇からばらまく。群衆がそれに群がる。それは隣のビルへ捜査の手がのびるとき、捜査官をすぐに到着させないためである。群衆にもみくちゃにされて、捜査員がなかなか隣のビルに入れない。
うーん、誰なんだ。こんな手の込んだ群衆の利用方法を考え出したのは……。というくらい、細部がていねいなのである。宝石強盗役の二人が金庫の暗証番号を盗み出すシーンなんか、「ミッション・インポッシブル」に見せてやりたい。--「ミッション」を書いたついでに書いておくと、まあ,ぱくりというかコピーが随所にあるのだけれど、それを新しいビル、新しい機材でコピーするのではなく、古くさい形でコピーしているのが、この映画の「天才的」なアイデアである。あ、このシーン見たことがあるぞ、ではなく、あ、「ミッション」はここから盗んでいるじゃないかと錯覚させる。えらい。
自殺志願者が元警官、しかも脱獄犯だとわかって狙撃隊が屋上から突入するとき、男と狙撃手が命綱のロープで宙に舞うところなんか、ほんとうに、えらい。えらいとしかいいようがない。パクリを越えている。トム・クルーズの場合、ぜったい失敗しないとわかっているからびっくりは笑いになってしまうが、いやあ、私は笑うのを忘れてしまいましたねえ。思わず、がんばれ、と応援してしまいました。自殺志願の男に。
というわけで、男の「動機」はもっぱらことばでしか説明されない弱みがあるのだけれど、これを自殺志願者を説得する刑事を登場させることで、そこにはことばがあっていいのだと納得させて(説得というのは、ことばでするものだからね)、一方で、宝石強盗の方はもっぱら映像を主体にストーリーを展開するという、ほんとうにほんとうに、どこまでも二重構造を巧みに活かした、まあなんというか、
渋い、渋い、渋い、渋い
映画でした。これだけ渋いときっとヒットはしない。けれど、見逃すと損ですぞ。これは。
(天神東宝シネマ3、2012年07月08日)