詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

相沢正一郎「日記」

2012-07-26 10:33:47 | 詩(雑誌・同人誌)
相沢正一郎「日記」(「歴程」580 、2012年07月10日発行)

 相沢正一郎「日記」の2段落目。

 わたしもまた清少納言のように<車窓で別れの挨拶をした後も、なかなか出発しない電車>に興ざめしたり、<自転車の買い物籠に捨てられていた空き缶>に怒ったり、<コートの袖口のぶらぶらのボタン>が気がかりだったり……。

 この連では、詩、とどこにある。詩を新しい視線がとらえた新しい「もの」、そのことばと定義するなら<>のなかに入っていることばが、詩になるかもしれない。
 <車窓で別れの挨拶をした後も、なかなか出発しない電車>はたしかに言いえて妙である--と言いたくなる。実際、軽い気持ちで、そう言ってしまいそうである。まあ、たしかにそうではあるのだけれど。そして清少納言の書いたものは、そういうちょっと言いえて妙、誰もが気づいているのだけれど、きちんとより分けてていねいに分類しなかったものを、ていねいに整えて提出するおもしろさがあるのだが。
 でも、私は、その部分ではなく、「に興ざめしたり」「に怒ったり」「が気がかりだったり」がとてもおもしろいと思う。ここに詩があると思う。
 < >のなかのことばは清少納言とは重ならない。つまり、「新しい」。「新しい」野多けれど、「古い」。たしかにだれかがしっかりことばに定着させたものではないけれど、まあ、どこかで見たような雰囲気がある。だからこそ、その手際になんというか「ていねいなより分け」のようなものを感じ、あ、いいなあ、と思うのかもしれないが。
 一方「に興ざめしたり」「に怒ったり」「が気がかりだったり」に新しさは何もない。ただ、誰もが感じる感情の動きが、誰もがつかうことばで書かれている。
 しかし、しかしですねえ。ここに「繰り返し」がある。それは私たち(だれもの)の経験の繰り返しであるだけではなく、清少納言の経験の繰り返し。で、それを繰り返すとき、「私たち(だれでも)」が浮かび上がってくるのではなく、なぜか、清少納言が浮かび上がってくる。
 あ、そうか、こんなふうにして「過去」を「いま」に甦らさせる方法があったのか、という不思議な驚きがある。
 同じようなことばの動きが後半にも出てくる。

 父の日記を読んだとき、父もまた、<潔くわれずに、いびつになった割り箸>に苛立ったり、<ふるい本に挟まれていた演劇のチケットの半券>をみつてけ懐かしがったり、<靴下のかたっぽをさがしまわっ>て癇癪をおこしたり、<茶柱の立つ熱い湯呑み>にしあわせを感じたり……。

 < >の外の部分、いわば「地の部分」といえばいいのかな? それは詩のことばというより、散文のことばなのかもしれないけれど、やはり「繰り返し」がある。そして、それは繰り返しであるのだけれど、その前にある< >によって、繰り返しが同じものではなく、「差異」として浮かび上がってくる。
 「差異」は< >のなかのことばにこそある、という見方がほんとうなのかもしれないけれど、私には、逆に見える。< >は清少納言を現代風に、あるいは父親風にコピーすれば「必然」として姿をあらわす。繰り返しは、コピーに見えて実はコピーではない。そのつどの「更新」なのである。繰り返すことによって、前に進んでいる。その前に進む力がそこにある。
 だからね、これを、詩、と呼ぶのである。私は。 

 (体調不慮、短い感想でした。)


テーブルの上のひつじ雲/テーブルの下のミルクティーという名の犬
相沢 正一郎
書肆山田
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