詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレクサンドル・ソクーロフ監督「ファウスト」(★★)

2012-07-01 10:36:20 | 映画

監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 ヨハネス・ツァイラー、アントン・アダシンスキー、イゾルダ・ディシャウク、ゲオルク・フリードリヒ

 私はこういう「思わせぶり」な映像(画質)が好きではない。全体がセピア色ふうに弱められている。そういう色を、私は日常的には見ない。だから、この統一された色彩の世界を視覚の新体験(いままで見たこともない映像)と呼んでもいいの汝かもしれないけれど、そういう「新体験」を求めて私は映画を見るわけではない。あくまでも、いまの私の肉眼が見落としてきたもの、あるいは肉眼がそこまで行くことのできない場所で「見る」ものを見たい。この映画では、色彩を調整していると同時に、視軸(?)とでもいえばいいのか、視線さえも調整している。画面が奇妙な具合に斜め方向に引き伸ばされる(押し縮められる?)ようにねじれる。ファウストがマルガレーテを最初に真剣に見つめるときの、少女の顔は、彼女自身の顔が動いたのか、視軸が動いたためにそうなったのか、よくわからない。変な融合がある。--こういう映像は、私のように視力の弱い人間にはとてもつらい。頭のなかで映像が液体のようになだれる。
 好意的に考えれば、ソクーロフは映像を観客が観客独自の「現像液」と「定着液」で完成させればいいのであって、映画はその「素材」をなるべく「なま」の形で提供すると考えているのかもしれない。でも、こういう態度は、私には、とてもずるい方法に思える。なんとなれば、ほんとうに見せたい部分だけは、しっかりと監督自身が「現像液」と「定着液」で処理していまっている。それは、マルガレーテがファウストの下宿(?)を尋ねてくるシーン。マルガレーテの顔が透明に輝く。無垢で、しかもどこかに肉感がかすかに残っている。いや、肉感が生まれはじめている。無垢なのに、その奥から肉感が誘い出されるのを待っているような--言い換えると、ファウストに触れることで無垢な少女がおんなに生まれ変わるのだということをファウストに感じさせる姿で輝く。少女がおんなに生まれ変わるとき、ファウストは苦悩する人間から生きるよろこびに満ちた人間へ生まれ変わることができる。そういう「夢」がそこに映し出されている。ファウストは現実のマルガレーテではなく、そこに「イデア」のような少女を見る。そのイデアを強調するために、それまでの歪んだ、そしてセピア色に加工された映像が利用されてしまっている。こういう映像と映像の関係(文法)が、どうにも気に食わない。
 これが、どういえばいいのだろうか--セピア色の映像のつくりだす世界が、その運動によって自然にマルガレーテの姿を透明にかえていくというのなら納得できるのだが、どうも違う。映像のもっている文法とは関係なく、そこにはファウストの恋というストーリーが強引に割り込み、ファウストの恋がマルガレーテを美しくする(美しく輝かせる)という具合なのだ。映像ではなく、ファウストのストーリーが、その映像を要求した、ということ。
 これは、ずるい。
 映画として、とてもずるい。映像の運動が、ストーリーによって強引にかえられ、そしてなおかつ、そこにストーリーをより強い形で出現させてしまう。ファウストの苦悩(?)や肉欲、純情をていねいに映像として描いてきた結果、透明なマルガレーテが映像として登場するのなら納得できるが、この映画はそんなふうには映像とストーリーの関係を構築してはいない。まったく気ままに、ただご都合にあわせて、ふたつを組み合わせている--というよりも、ストーリーに映像を従属させてしまっている。映像が自律運動によって新しい映像を生み出していくという快感を完全に否定している。こういうものは、映画ではない。
 で、さらにずるいのは……。
 まあ、ずるくはないというひともいるかもしれないが、脇役たちの視線の利用の仕方がうまい。ふつう映画というのは主人公の視線で成り立っている。つまり、観客がスクリーンで見るさまざまな映像の新体験は、主人公の映像体験そのものと思ってみる。言い換えると、観客は主人公になったつもりで映画の世界に入っていく。--こうした自然な観客の欲望と視覚の受容運動を、スクーロフは巧みに封じ込め、全体としては、この映画はファウストの見ている世界そのものではない、と言い続けるのである。具体的に言いなおすと、この映画には脇役たちがこっそりファウストを見ているという「証拠」が次々に出てくる。ファウストの助手であるワーグナーは、いつも隠れながらファウストを見ている。下宿屋の女主人も同じである。その他の小さな(?)脇役、たとえばファウストの父に食料をもってくる小間使い(?)の少年も、ファウストと父がものを食べるのを影から見ている。--映画で展開されるのは、ファウストの見た世界であると同時に、その周辺のひとが見たファウストの世界である。
 これを別な言い方で言うと、まあ、ファウストの見ている世界は、周りの人には見えない。周りの人にはその一部しか見えない。彼らから見れば、天才の見ている世界は理解不能(正常ではない)であり、その理解不能さ加減というか、見えにくさ加減は「セピア色」ということになる。そうして、ファウストのほんとうに見ている世界は、マルガレーテの輝かしい肖像に象徴されるように、とても美しい。その対比を、スクーロフはこの映画で映像として定着させた、ということになる。
 ああ、うるさい。ああ、やかましい、と私は思ってしまうのである。
 こんな「理屈」のために、映画を見るのではない。
 うるさい--と、いえば、この映画の台詞の多さにもまいってまう。ひっきりなしにしゃべっている。会話だけでは言い足りないのか、ファウストの「独白(心の声)」まで聞かされるし、マーラー風の輪郭のくずれた音楽がひっきりなしに鳴る。

 まあ、うさんくささについて語り合うのが好きなら、こういう映画もいいかもね。芸術なんてうさんくさいものだと言われれば、それを否定することはできない。--というようなことが、どこかでささやかれて、ベネチア映画祭のグランプリになったのか。私は評論家ではないので、そういう評価にはお付き合いしたくない。
                      (KBCシネマ1、2012年06月30日)





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