詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『永遠まで』(15)

2009-08-15 00:07:02 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(15)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「海へ 母へ」はジャック・マイヨールに寄せた作品。そのなかほど。

海の中には すべてがある
そのことを説明するのに なんと
人間の言葉の 貧しいこと
試みて 果たさず いらだって
とどのつまりは 海へ
海の中に 言葉はあるか
海にあるのは たった一つの
融通無礙な 言葉以前の 言葉
その言葉は きみを 抱きとる
限りなく 自由にしてくれる

 何かに魅了された人間というのは、ここに書かれている状態にあるのだ。「何か」のなかに、ことばにならないことばを感じ取る。それは日常私たちが話していることばでは伝えられない。つまり、ことばにはならない。ことばにはならないのに、ことばを感じる。そして、そのことばのなかでうっとりしてしまう。
 あらゆる人間が、ことばにならないことばにひきつけられる。ことば以前のことばを、「肉体」そのもので感じてしまう。
 もし、それをむりやりことばにすると、どんなことがおきるのか。

きみのメッセージに 人間たちは
惜しみない 拍手とほほえみ
結局は とまどいと拒絶
きみに寄り添い 抱きあい
共に 海に潜った恋人さえも

 人は、ジャック・マイヨールの行為を称讃し、そのことばも読むけれど、ジャック・マイヨールはあいかわらずひとりである。
 だれが、彼のことを理解できるか。だれが、彼を真摯に抱き留めることができるか。それは、少年ジャックが海へ飛び込んだとき、ジャックの名を呼んだ母だけである。行ってはいけない、危ない、と心配して陸へ呼び戻そうとする母の声だけが、ジャックの声にならない声を理解している。その声に魅せられては、絶対に、陸へ帰ってくることはできないと、母だけが知っているのだ。
 それは、母といういのちの本能だろうか。

きみは還っていく 始まりへ 海へ
幼いきみを呼ぶ 遠いあの声に
応えるために mama-a-a-a-a-a-n-n

 この母と子の絆--それは、「奇妙な日」に書かれている母と高橋のことを連想させる。高橋は、ただ母のために、「ぼくの大好きな たったひとりの/おかあさん」と書くために、詩を書いているのではないだろうか、とふと思った。





和の菓子
高岡 一弥,高橋 睦郎,与田 弘志,宮下 惠美子,リー・ガーガ
ピエ・ブックス

このアイテムの詳細を見る

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 磯崎憲一郎「終の住処」 | トップ | 誰も書かなかった西脇順三郎... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

高橋睦郎『永遠まで』」カテゴリの最新記事