詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『永遠まで』(13)

2009-08-13 01:16:19 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(13)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「犬いわく」には神と人間の関係をみつめたことばがあるが、私がひかれるのは、後半だ。

彼はぼくを繋いだ鎖を手に
朝夕 散歩するのを好む
沖から白い波が寄せてくる砂浜や
小鳥の冗舌な歌の塊となる木の蔭
あいつを連れた彼女が現われて
ぼくを連れた彼の挨拶を受ける
ぼくらが鼻で嗅ぎあっているあいだ
彼らは言葉でさぐりあっている
わからなさから 愛が立ちあがり
愛から 生命が産み落とされたりする

 「言葉でさぐりあう」に、人間は、ことばの生き物であるということが明確に記されている。生きていることを確かめるのもことばなら、死後を生きるのにひつようなものもことばである。
 生きている人間同士がことばをかわし、何かをさぐりあうのが「愛」ならば、死後をことばで生き抜くこと、誰かの死をことばで引き継ぐことも愛になるだろう。そして、それが愛なら、そこから生命が産み落とされる。この生命を「詩」と読み替えるとき、そこに高橋の作品群が浮かび上がる。

歴史とは何だろうか
ぼくが彼に出会って以来の時間?
ぼくらの出会いは 三万年前
あるいは それ以上ともいう
彼の歴史は ぼくとの歴史ではない
彼は 歴史を自分で満たしたがる
自分で完結させる時間のさびしさ
自分でいっぱいの空間のむなしさ
ぼくは彼の癒されることのない孤独を
熱い舌で舐めつづけるほかはない

 「歴史を自分で満たす」とは歴史を自分のことばで満たすということだろう。他人の死を(他人の生を、というのに、それは等しいのだが)を生きなおすというのは、他人の生と死後をことばでとらえなおすということだ。そのとき、たとえ、他人のことばをつかったとしても、彼(高橋)がそれを繰り返すのだから、そのときは他人のことばであると同時に彼(高橋)のことばにもなる。あらゆることが「彼」(高橋)のことばで満ちることになる。

自分で完結させる時間のさびしさ
自分でいっぱいの空間のむなしさ

 そして、これから先が大いなる矛盾である。自分で完結させないために、そういう願いから、高橋は他人の死後を生きるのだが、他人の死後を生きれば生きるほど、そこには自分のことばが満ちてくる。あらゆる空間に自分があらわれてくる。
 それを超越するには、さらに他人の死後を、次々に生きなければならない。

 どこまで繰り返してもひとり。つまり、孤独。知っていて、高橋は繰り返す。高橋のことばには、どこか死の匂いがするが、それは孤独の匂いと同じものだ。あるいはそれは、完結することば、の匂いかもしれない。
 ことばを完結させないために、つまり開かれたものにするために書けば書くほど、ことばは閉ざされていく。

詩を救うには 詩人を殺すしかない
彼は投身することで 詩人を殺したのだ
少なくとも彼の中では 自分を殺すことで
詩は健やかによみがえったにちがいない

 これは「詩人を殺す」という作品のなかの行だが、現実に投身自殺する以外にもし自分を殺す方法があるとすれば、それは自分のことばを捨てることである。
 そして、その自分のことばを捨てるということこそ、他人の死後を生きるということなのだが、そう考えると、ここでまた同じことが起きる。堂々巡りがはじまる。

 矛盾。堂々巡り。それを承知で、なお、ことばを動かしていく。それが詩人なのだろう。詩人の仕事なのだろう。矛盾しながら、一瞬だけ、詩人の中でよみがえる詩--それを追い求めるのが詩人の仕事なのだ。



詩人の食卓―mensa poetae
高橋 睦郎
平凡社

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