詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『永遠まで』(9)

2009-08-10 01:15:53 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(9)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「旅にて」には「田原に」という副題がついているから、きっと中国を旅したときの詩なのだろう。高橋は、日本の死と中国の死を見つめていることになるのだろうか。

 1
大地が土だけで出来ていることを
ここに来て あらためて知った
土だけの大地の上に 土だけの道
男が 大きな麻袋を肩に 歩いていく
彼の後ろにも 前にも 土の大地だけ
家らしいものは 何も見えないから
とりあえず 男はただ歩いているだけ
大きな袋を担(かた)げて 一足 一足ずつ
生きるとは つまるところ 歩くこと
重い荷物を 担げるか 手に持つしかして

 3行目の「土だけの道」ということばに強くひかれる。周り中土。そのなかに、土だけの道。どうやって道と道以外を区別するのだろう。区別することはできない。ただ、歩くことが「道」をつくることなのだ。それは歩きながら「道」になることでもある。
 その男は「大きな麻袋」を担いでいることになっているが、3行目の「土だけの道」の印象があまりに強いので、私には、その麻袋は「まぼろし」に見えてしかたがない。何も担いでない男しか見えない。(私には、ことばに書かれていることを正確に想像してみる能力が欠けている。)
 男は、自分の肉体だけを、まるで麻袋を担ぐようして運んでいる。もし、大きな麻袋があるとしたら、それはきっと男の肉体の形をした麻袋だろうと思ってしまう。
 そして、私はいま、男は歩きながら「道」になる、と書いたばかりなのだが、いや、そうではなく、男は歩きながら「道」を消して、ほんとうは「大地」に、「土」になるのだと思ってしまう。土になるために、男は歩く。
 では、土になるとは、どういうことか。

 2
小蠅が来る
私が死ぬものだということを 嗅ぎつけて
私が生きていることは 刻刻に死に近づいていること
私が息をしなくなっても しばらくは離れないだろう
だが じゅうぶんに死んで 解体して
死ですらなくなったら 彼はもう そこにはいない
新しい死の みずみずしい匂いのほうへ翔(と)びたって
人間の最も親しい友 透明な 優雅な翅(つばさ)持つ者よ

 「土」になるとは死ぬことだ。ただ死ぬのではない。「じゅうぶんに死んで 解体して/死ですらなくな」る。それが「土」だ。
 死ぬというのは、「息をしなくな」ることではないのだ。そのあと死を生きて、死を生き抜いて、十分に死ななければならない。--死を生きる、死を生き抜くというのは矛盾したことばだが、この矛盾のなかにこそ、詩がある。
 矛盾しているから、詩なのだ。
 では、死を生きるとはどういうことか。常に死を求めることである。それは、またまた矛盾した言い方になるが、蠅になることだ。「土」になるだけでは不十分だ。「土」になることを見届けたら、こんどは蠅になって、「新しい死の みずみずしい匂い」を求めて、ここを立ち去る。
 そのときの、その新しい死の匂いを求めて旅立つという思想のなかに「透明な 優雅な翅」が潜んでいる。輝かしいものが潜んでいる。ことばでしか、ことばの運動の中でしか、存在し得ない輝かしいものが潜んでいる。

 死とは、常に想像されなければならない。しかも、その死は、固定したものではない。「土」になり、「蠅」になる--という具合に、変わっていく。死を生きながら、想像力は、別のものを生み出しつづける。それが死なのだ。

 私の書いていることは、飛躍が多すぎるかもしれない。たぶん、こういう飛躍の多いことばを誘ってくれるのが「中国」という「大地」(土)なのかもしれない。それは日本の「土」とは違う。そして、そこには日本の死とは違う死がある。
 高橋は、田原の生きてきた中国で、日本には存在しない死を探し、それを生き抜いてみようとしている。

 3
砂漠の中のその樹は 千年を生き
枯死して千年 立ったまま
倒れてなお 千年は腐らぬ という
砂あらしから 樹皮を 自分を護るため
おびただしい髭枝を 周りに垂らし
おびただしい髭根で 土砂を掴んでいる
梢のなかば枯れた葉むらは 風に鳴り
からからと 千の鈴 千の言葉
近く 遠く 囁きあい 呼びかわす
雲多い秋天の下(もと) そよぎの会話は
日の限り つづく起伏の涯の涯まで

 もう、ここでは高橋は「蠅」ではなくなっている。別な死を見つめている。千年死を生き抜く樹木の死。十分に死ぬには千年が必要なのだ。「蠅」のように短い寿命(?)の生き物では、死を千年も生きることはできない。新しい死の匂いを探して、ここから離れ、どこかへ行くしかない。
 けれど、どこまで行っても「土」(大地)なら、どこかへ行くことはどこへも行かないことにひとしくなる。それよりも、どこにも行かないことで千年死を生きる方が、とんでもない「場」へ行ってしまうことになるのかもしれない。
 千年死を生きると、その死は「言葉」になる。
 あ、これは、すごい。
 これは、また、逆に言えば、ことばになるためには、死を千年も生きなければならない、ということになる。
 この千年という時間。この悠久が、もしかすると、中国ということかもしれない。

 死は、千年かけて「言葉」になる。中国の大地には、その「言葉」が「囁きあい 呼びかわ」し、その会話は「そよいでいる」。(「そよぎの会話」と高橋は書いている。)
 「そよぎの会話」の「そよぎ」は、それに先行する「風」ということばが誘い出したものかもしれない。「言葉」の「葉」が風にそよぐ。

 このことばを読みながら、私は、一気にぶっ飛ぶ。

 高橋が書こうとしたことではないかもしれないが……。「そよぐ」は漢字で書くと「戦ぐ」である。中国人である田原は「そよぎの会話」ということばに触れたとき(この詩は田原に向けて書かれている、第一の読者を田原と想定して書かれている)、田原の頭のなかで(肉体のなかで)、どんな漢字が飛び交っただろうか。
 中国でも「そよぐ」という状態をあらわすのに「戦」という文字をつかうのだろうか。そして、その文字から、同時に「戦争」を思い浮かべるだろうか。--私は中国人ではないので、私の感想を書くしかないのだが……。
 「そよぎの会話」。それは「戦ぎの会話」。そして、それは言い換えると「会話の戦争」、「ことばの戦争」。
 死を生きるとは、ことばの戦争を生きることである。
 生きていたときにつかっていたときのことばが、そのことばでは表現できないものにであって、戦う。戦争をする。多田智満子の死を悼んだ作品のなかに、「未知」のむこう、死の世界が愉しみだという表現があったが、それは「未知」とことばで戦う愉しみ、どんなことばなら未知と戦えるかことばを探してみるという愉しみかもしれない。
 「いのち」をかけて、ことばを戦わせる。
 そのとき、ことばの風は、さわやかになる。「千の鈴」のように美しい音を響かせる。きっと、そうだと思う。

 田原でなくてもいい、だれか中国人で「そよぎの会話」ということばを漢字で書くならどうなるか、わかる人がいたら、ぜひ、教えてください。



十二夜―闇と罪の王朝文学史
高橋 睦郎
集英社

このアイテムの詳細を見る

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松岡政則『ちかしい喉』(3) | トップ | 誰も書かなかった西脇順三郎... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
高橋睦郎「永遠まで」9 (大井川賢治)
2024-06-12 22:27:35
/千年死を生きると、その死は言葉になる/。雄大ですね。日本にはない風景。中国の風景ですね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

高橋睦郎『永遠まで』」カテゴリの最新記事