高橋睦郎『永遠まで』(7)(思潮社、2009年07月25日発行)
「いまはまだ」は片瀬博子の思い出を書いている。高橋は片瀬から「新しい言葉が つぎつぎに襲ってくる/近いうち送るから 一冊にまとめてほしい」と電話で頼まれた。だが、詩は送られてこなくて、かわりに訃報がとどいた。そして、詩の草稿は見当たらなかった。
片瀬のことばを繰り返す。そうすることで、高橋に片瀬になろうとする。片瀬の生を反復する。
だが、片瀬が見えてこない。
高橋に見えるのは、「オランウータン」のようになった片瀬ではない。「四十年前」と同じ片瀬である。なぜ、四十年前と同じなのか。ここには、具体的には書いていないが、高橋が片瀬に見ているのは肉体ではないからだ。「ことば」を見ているからだ。片瀬とは、高橋にとって、なによりもことばだったのだ。
ことばは不随を手をとおって出てくるのではない。ことばは、声となって出てくる。声が出るかぎり、ことばは自由に動き回る。「原始」(オランウータン)とは無縁の世界、頭脳の世界を駆け回るのである。
ことばの運動。神とも拮抗する強いことば--それは肉体を抜け出して、自由に世界を切り開いていく。
それは、ある意味で、肉体を必要としないことばである。
肉体を必要としないことば。それゆえに、そのことばは肉体に裏切られるのかもしれない。ことばの自由の代償として、肉体の自由が奪われる。--というようなことを、高橋は書いているわけではないのだが、高橋のことばを読んでいくと、そういう思いにとらわれる。
肉体を必要としないことばは、神と向き合う。神と拮抗する。
この部分を、片瀬は、神と拮抗し、神と切り結び、ことばの力によって自由を獲得し、その自由は「野生」のいのちにまでさかのぼった、と読むことは不可能だろうか。
人間ではなく、人間以前の「いのち」、人間が生まれる前の「いのち」。未生としての存在。
高橋は「人間に先立つ 崇高な一族」と呼んでいるが、いのちは原始にかえれば還るほど力強く輝く。片瀬のことばは、そういうまなまなしい「いのち」から噴出してきている--高橋は、片瀬の生から死への時間をたどることで、そのことばを逆にさかのぼって、片瀬の死からいのちへ、そして、そのいのちの源の原始へと到達しているのではないのか。
この運動は、つねに逆向きのベクトルを含んでいる。そのために、よくよく見ないとどこへ向かっているかわからないし、よく見れば見るほどふたつのベクトルが拮抗し、衝突し、炸裂し、発光して、その閃光のために目つぶしを食らってしまう。
見極められない不思議な力が、ことばのなかで、爆発している。
という1行は、1連目にあったのだが、その眩しい言葉たちは、いまは、高橋の肉体の中に引き継がれて爆発し、この詩になったのだと思う。
こんなふうにして、書かれなかったことばが、別の詩人に引き継がれ、生き抜き、輝くというのは、死んでしまった片瀬には申し訳ないが、片瀬の幸せというものだろうと思う。
「いまはまだ」は片瀬博子の思い出を書いている。高橋は片瀬から「新しい言葉が つぎつぎに襲ってくる/近いうち送るから 一冊にまとめてほしい」と電話で頼まれた。だが、詩は送られてこなくて、かわりに訃報がとどいた。そして、詩の草稿は見当たらなかった。
いまは行方不明の その言葉たちを探す
とっかかりは ぼくが編んだあなたの全詩集
活字になった あなたの最後の詩の
最終連 異形の八行--
「わたしは衣服をもぎ取られ
谷間に捨てられていた
裸のわたしの背後には
雨雲のかかった山々が重なっている
巨大なオランウータンの肩が重なりながら
迫ってくる
わたしの麻痺した片手は 指が石のように固まって
彼らの一族の徴を見せはじめている」
ぼくは ここから あなたを訪れたという
言葉たちを 探索しなければ
片瀬のことばを繰り返す。そうすることで、高橋に片瀬になろうとする。片瀬の生を反復する。
だが、片瀬が見えてこない。
電話の何箇月か前 最後に会ったあなたは
すこしも 彼らの一族のようではなかった
四十年前 松林の中のぼくを見舞ってくれた時の
快活な若やぎが 声にも顔にもあふれていた
遥かな日 草を敷いた二人の前方にあった
同じ輝かしい海が 窓のむこうに轟いていた
それとも ぼくがすこぶる付きの鈍感で
向きあう二人を囲む 雨雲のかかった
オランウータンのような山山の怒り肩が
目に入らなかっただけなのか
あなたの半身は すでに原始の体毛に覆われ
片手は 指先から石に変わっていたのか
高橋に見えるのは、「オランウータン」のようになった片瀬ではない。「四十年前」と同じ片瀬である。なぜ、四十年前と同じなのか。ここには、具体的には書いていないが、高橋が片瀬に見ているのは肉体ではないからだ。「ことば」を見ているからだ。片瀬とは、高橋にとって、なによりもことばだったのだ。
ことばは不随を手をとおって出てくるのではない。ことばは、声となって出てくる。声が出るかぎり、ことばは自由に動き回る。「原始」(オランウータン)とは無縁の世界、頭脳の世界を駆け回るのである。
ことばの運動。神とも拮抗する強いことば--それは肉体を抜け出して、自由に世界を切り開いていく。
それは、ある意味で、肉体を必要としないことばである。
肉体を必要としないことば。それゆえに、そのことばは肉体に裏切られるのかもしれない。ことばの自由の代償として、肉体の自由が奪われる。--というようなことを、高橋は書いているわけではないのだが、高橋のことばを読んでいくと、そういう思いにとらわれる。
肉体を必要としないことばは、神と向き合う。神と拮抗する。
あなたは 自身献身的な一員となって建てた
新しい教会堂の 日曜礼拝の最中 倒れた
あなたの怖しい神が あなたを囚人(めしうど)にした
なのに あなたはなおも言いやめない
囚われているのは 神自身
囚えているのは人間にほかならない と
ならば 自身囚われながら あなたを囚えた者は
あなたを囚えることで 牢獄(ひとや)を抜け出し
あなたを人間の群れから 解放したのか
人間の桎梏から 解放されたあなたは
変わらず 人間の中にあると見えつつ
人間に先立つ 崇高な一族の
体毛に襲われた一員となったのか
この部分を、片瀬は、神と拮抗し、神と切り結び、ことばの力によって自由を獲得し、その自由は「野生」のいのちにまでさかのぼった、と読むことは不可能だろうか。
人間ではなく、人間以前の「いのち」、人間が生まれる前の「いのち」。未生としての存在。
高橋は「人間に先立つ 崇高な一族」と呼んでいるが、いのちは原始にかえれば還るほど力強く輝く。片瀬のことばは、そういうまなまなしい「いのち」から噴出してきている--高橋は、片瀬の生から死への時間をたどることで、そのことばを逆にさかのぼって、片瀬の死からいのちへ、そして、そのいのちの源の原始へと到達しているのではないのか。
この運動は、つねに逆向きのベクトルを含んでいる。そのために、よくよく見ないとどこへ向かっているかわからないし、よく見れば見るほどふたつのベクトルが拮抗し、衝突し、炸裂し、発光して、その閃光のために目つぶしを食らってしまう。
見極められない不思議な力が、ことばのなかで、爆発している。
おお 眩しい言葉たちは 何処へ行ったか
という1行は、1連目にあったのだが、その眩しい言葉たちは、いまは、高橋の肉体の中に引き継がれて爆発し、この詩になったのだと思う。
こんなふうにして、書かれなかったことばが、別の詩人に引き継がれ、生き抜き、輝くというのは、死んでしまった片瀬には申し訳ないが、片瀬の幸せというものだろうと思う。
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