伊藤悠子「あなたにあうためには」(「左庭」18、2010年12月20日発行)
伊藤悠子「あなたにあうためには」は読みはじめてすぐ、とても気に入った。1行を読んだ瞬間から次の行を読みたくなった。音が気持ちがいいのである。
「アウローラ」の最初の「あ」の音が「あ」かつき、「あ」なた、「あ」うと繰り返される。「アウローラ」が何を指すのかわからないが(たぶん、すぐあとで繰り返されている「あかつきのひかり」だろうと思うけれど)、私にとっては、それはわからなくてもかまわない。書いている伊藤には申し訳ないが、私は「意味」にひかれて読みはじめるわけでも、読みつづけるわけでもない。私がことばを読みつづけるのは、そのことばの「音」が私にとって気持ちがいいかどうかが一番重要である。私は黙読しかしないが、その黙読のとき、私の肉体の中で音が生まれる。自然にのどが動く。舌も動く。声帯が緊張したり緩んだりする。その感じがそのまま耳に伝わる。そして、そのときの肉体の反応が私にはとても重要である。気持ちよくないと、あとを読む気がしないのである。
この詩は「アウローラ」という不思議な「あ」のゆらめきのような音がおもしろいし、それにつづく「あ」の繰り返しがうれしい。
そして3、4行目では「あ」の音から一転して別なものになる。
それぞれの行の頭では「はるばる」「たどたどしい」と濁音の多い音が繰り替えされ、行の終わりでは「ねばならなかったのだろう」が繰り返される。
ことばの音楽が一気に広がって豊かになる。
この豊かさの印象を土台にして、ことばはさらに別な音を探しはじめる。
「ま」だ「み」えない「め」には/「ま」なざしがあり、という「ま行」揺らぎ。そしてそれを「ほのかにふかい」と「ま行」を含まない音で破って「ま」なざしは、と再び「ま行」へ帰ってくる。
「まなざし」が繰り返されたあと、そのことばのなかの「し」が選ばれて「し」らせをきいてということばへつながる。「ま行」から「さ行(ざ行)」へと音が動いているように感じられる。まな「ざ」「し」、おと「ず」れ。それから、なでるが絶妙である。なでるのなかに、な「ぜ」るという訛りの「ざ行」の誘いと、その誘いを拒絶する動きがある。「ざ行」を拒絶した音は、
と、「な」の音を選ぶ。「な」でた、「な」れば。(「で」という音と「れ」という音は、「ぜ」と「で」と音と似た感じの距離にある。)
いちいち説明しているときりがないけれど、こういう感じで「音」が揺れ動いていくのだ。次のように。
最後は、冒頭の「あ」が繰り返される。とてもうれしい。私の肉体はこのなつかしい響きに酔ってしまう。「あ」の繰り返しのあと「ことだよ」と「お」の音をたくさん含んだことばと「だ」という濁音の豊かさが響き、なんといえばいいのだろう、長調の音楽が「ド」の音をゆっくり響かせて終わるような自然な落ち着きがある。
で、ちょっと補足すると……。
この「アウローラ」が何であるのか(あかつきのひかりなのか、それとも神の別の名前なのか)知らないが、そういうちょっと「不明のもの」をしっかりと呼び込むというか、自分の肉体になじませるためには、この詩で伊藤が実践しているような「繰り返し」と揺らぎがとても効果的だと思う。
神(あるいは信仰の教義)というものは、その真理にたどりつけない。しかし、たどりつけなくても、その「ことば」を繰り返していると、ことばとともに「肉体」のなかでそれなりに「形」をとりはじめるものなのだ。肉体が、ことばではたどりつけないものを、なぜか納得してしまうのだ。そういう状態に達するために、ことばは「声」を通らなければならないのかもしれない。「声」を通ることで、「ことば」は「意味」とは別な形で「真理」に触れるのだ。それは、「真理」を求めるという運動のなかにある渇望、本能の「真理」かもしれない。幸せになりたいという願う本能としての「真理」かもしれない。それはきっと神の「真理」と呼応している。
伊藤の書いていること、「アウローラ」が何かはわからないけれど、それに向き合うときの伊藤の「真理(真実)」、正直というものが、この詩の美しい音楽のなかにある。それを、とても強く感じた。
伊藤悠子「あなたにあうためには」は読みはじめてすぐ、とても気に入った。1行を読んだ瞬間から次の行を読みたくなった。音が気持ちがいいのである。
アウローラ、あかつきのひかりよ
あなたにあうためには
はるばるといきてこなければならなかったのだろう
たどたどしくならねばならなかったのだろう
「アウローラ」の最初の「あ」の音が「あ」かつき、「あ」なた、「あ」うと繰り返される。「アウローラ」が何を指すのかわからないが(たぶん、すぐあとで繰り返されている「あかつきのひかり」だろうと思うけれど)、私にとっては、それはわからなくてもかまわない。書いている伊藤には申し訳ないが、私は「意味」にひかれて読みはじめるわけでも、読みつづけるわけでもない。私がことばを読みつづけるのは、そのことばの「音」が私にとって気持ちがいいかどうかが一番重要である。私は黙読しかしないが、その黙読のとき、私の肉体の中で音が生まれる。自然にのどが動く。舌も動く。声帯が緊張したり緩んだりする。その感じがそのまま耳に伝わる。そして、そのときの肉体の反応が私にはとても重要である。気持ちよくないと、あとを読む気がしないのである。
この詩は「アウローラ」という不思議な「あ」のゆらめきのような音がおもしろいし、それにつづく「あ」の繰り返しがうれしい。
そして3、4行目では「あ」の音から一転して別なものになる。
それぞれの行の頭では「はるばる」「たどたどしい」と濁音の多い音が繰り替えされ、行の終わりでは「ねばならなかったのだろう」が繰り返される。
ことばの音楽が一気に広がって豊かになる。
この豊かさの印象を土台にして、ことばはさらに別な音を探しはじめる。
まだみえない目には
まなざしがあり
ほのかにふかいまなざしは
しらせをきいて
おとずれたものをなでた
「ま」だ「み」えない「め」には/「ま」なざしがあり、という「ま行」揺らぎ。そしてそれを「ほのかにふかい」と「ま行」を含まない音で破って「ま」なざしは、と再び「ま行」へ帰ってくる。
「まなざし」が繰り返されたあと、そのことばのなかの「し」が選ばれて「し」らせをきいてということばへつながる。「ま行」から「さ行(ざ行)」へと音が動いているように感じられる。まな「ざ」「し」、おと「ず」れ。それから、なでるが絶妙である。なでるのなかに、な「ぜ」るという訛りの「ざ行」の誘いと、その誘いを拒絶する動きがある。「ざ行」を拒絶した音は、
やがて目がみえるようになれば
と、「な」の音を選ぶ。「な」でた、「な」れば。(「で」という音と「れ」という音は、「ぜ」と「で」と音と似た感じの距離にある。)
いちいち説明しているときりがないけれど、こういう感じで「音」が揺れ動いていくのだ。次のように。
そのまなざしは
あなたのたましいのふかいところでしだいにしまわれ
あなたじしんをてらすだろうか
それとも
ときおりこぼしてくれるだろうか
はるばるといきてきたものは
たどたどしくなったものは
いくどもつぶやいたよ
ほっとした
ほっとしたね
ただそれだけのことを
まるでじぶんたちのあしのはこびをこしかめあうようにね
アウローラ、あかつきのひかりよ
まだなまえももたない
あなかにあったあさのことだよ
最後は、冒頭の「あ」が繰り返される。とてもうれしい。私の肉体はこのなつかしい響きに酔ってしまう。「あ」の繰り返しのあと「ことだよ」と「お」の音をたくさん含んだことばと「だ」という濁音の豊かさが響き、なんといえばいいのだろう、長調の音楽が「ド」の音をゆっくり響かせて終わるような自然な落ち着きがある。
で、ちょっと補足すると……。
この「アウローラ」が何であるのか(あかつきのひかりなのか、それとも神の別の名前なのか)知らないが、そういうちょっと「不明のもの」をしっかりと呼び込むというか、自分の肉体になじませるためには、この詩で伊藤が実践しているような「繰り返し」と揺らぎがとても効果的だと思う。
神(あるいは信仰の教義)というものは、その真理にたどりつけない。しかし、たどりつけなくても、その「ことば」を繰り返していると、ことばとともに「肉体」のなかでそれなりに「形」をとりはじめるものなのだ。肉体が、ことばではたどりつけないものを、なぜか納得してしまうのだ。そういう状態に達するために、ことばは「声」を通らなければならないのかもしれない。「声」を通ることで、「ことば」は「意味」とは別な形で「真理」に触れるのだ。それは、「真理」を求めるという運動のなかにある渇望、本能の「真理」かもしれない。幸せになりたいという願う本能としての「真理」かもしれない。それはきっと神の「真理」と呼応している。
伊藤の書いていること、「アウローラ」が何かはわからないけれど、それに向き合うときの伊藤の「真理(真実)」、正直というものが、この詩の美しい音楽のなかにある。それを、とても強く感じた。
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