詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(166 )

2011-01-02 11:49:52 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『豊饒の女神』のつづき。
 だれの詩にも、まったくわからない行(ことば)というものがある。西脇の詩の場合、「わかる」といえる行の方が少なく、私はかってにわかったつもりになっているだけなのだが、そのかってにわかったつもりにもなれない行があるから、ちょっと自分がいやになるときがある。
 「九月」。

またカマクラへもどつた
戦争の時代には朝に道をきいて
金沢街道をまがると
茄子に水をやる
あの老人のまがつた足などを
ほこりのいたどりとともに見れば
夕に死ぬもかなり
すべて思い出である
つまらないものだけが
永遠のイメジとして残る
それはローソクを買いに出たのだ
昔のように茄子ときうりとみょうがを
きざんで醤油をかけて
白シャツをきてたべてみたい

 「つまらないものだけが/永遠のイメジとして残る」の「つまらない」は別のことばで言えば「淋しい」だろう。その「淋しさ」に「まがつた(まがる)」が同居するのは西脇の特徴である。
 そう理解した上で、

それはローソクを買いに出たのだ

 この1行が私にはまったくわからない。何を読み違えたのだろう。私はカタカナ難読症だからもしかしたら「ローソク」は「ろうそく(蝋燭)」ではないのかもしれない。そう思って何度か読み返すが、どうみてもローソクである。
 戦争の時代、夜停電があり(あるいは灯火規制があり電灯がつかないことがあり)、明かりが必要なのでろうそくを買いに行ったということだろうか。そう解釈すれば「意味」は通じるが、なんとも窮屈である。朝に道をきいて夕に死すという文脈からも「夜(ろうそく)」が出てくる余地はないように思える。
 これはいったい、何?
 わからない行を含むのだが、私は、実はこの部分がとても好きだ。「永遠」の定義が好きだし、「ローソク」のあとの3行が、とてもしゃきしゃきした音でつくられていて気持ちがいいのだ。「き」うり、「き」ざんで、白シャツを「き」ての「き」がつくりだすリズムが気持ちがいい。みょうが、醤油、シャツにも通い合う音がある。
 なぜ「白シャツをきて」という味とは無関係なことばがあるかといえば、もちろん書き出しの

つくつくぼうしが
もう鳴いている
断頭台に行く囚人のように
白いシャツ一枚をきてポプラの
なみき路をひとり歩く

と関係するのかもしれないが、そんな絵画的なこだわりよりも、「白シャツ」という音そのものが私には美しく感じられる。「白いシャツ」ではなく「白シャツ」というのもいいなあ。ことばが短くなって、その分、次のことばの登場が早くなる。この速度感が楽しい。




詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房


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