白井知子「ハイデ・メンデ・ギヨナ さあ 駆け落ちしよう」(「幻竜」13、2011年03月20日発行)
白井知子のことばは他人とぶつかる。他人というのは「知らないひと」のことである。「知らないひと」には「知らないこと」がある。
「ハイデ・メンデ・ギヨナ さあ 駆け落ちしよう」はトルコの土産物店で少数民族について尋ねたことから書きはじめている。「どんな人たちなのかしら」。
それからいろいろ事実が語れる。それはみんな「気づかなかったこと」である。こういうことに出会ったとき、ことばはどうなるか。「事実」としてそこの存在しはじめる。それは白石には動かすことができない。それをそのまま認めるしかない。
これは当たり前といえば当たり前のことなのだけれど、多くの詩人のことばはたいてい白石のようには動かない。「事実」をそのまま「事実」として存在させるというよりは、自分の「肉体」をくぐらせ、自分の「肉体」になじんだ形にしてから「ことば」にしてしまう。感情や精神で、「汚して」そこに存在させる。白石はそうではなく、剥き出しのまま「事実」を存在させる。
知らなかった(気づかなかった)こと--「事実」の前では、ひとは、どんな存在でもない。それを受け入れることからはじめるしかないのである。
「気づかなかったわ」というのは何でもないことばだが、その何でもないと思われることをきちんとことばにすると、それに反応するように「他人」がそのまま動きだす。「気づかなかった」とき隠れていたひとたちが動きだす。
白石は、そういうひとたちを確実に受け止める。
そして、そこから白石の「肉体」が新しく動いていく。「他人」となって動いていく。白石は、「気づいた」他人を描写するのだが、そのとき白石は「他人」そのものになっている。
この詩でいえば、白石は「気づかなかった」ことに気づき、その「事実」を受け止めることで、いわば「トルコ人」、しかも彼女が「気づかなかった」少数民族のトルコ人になって、生きはじめる。
白石はトルコの少数民族に「なる」だけではなく、「風」にもなる。それは「ことば」そのものになるということである。詩になる、ということである。
この強いことば、あたらしいことばに、解説(というか、私のくだらない「説明」)はいらない。ただ、読めばいい。
そして、書き出しの、
という部分と比較すると、白石のことばのすごさがよくわかる。最初は、とてもつまらない(失礼!)散文である。改行をやめて、ただつづければ、どこにでもある旅行の「散文」である。中学生の「作文」のようでもある。このことばが、「他人」に出会い、かわっていく。「気づかなかったわ」ということばを挟んで激変し、ついには白石自身が「トルコの少数民族」になる。
トルコには 少数民族は存在するけれど いないことになっている
「いないことになっている」はずの「他人」が「白石」として生きはじめる--白石がいないことになっている「少数民族」になって生きはじめる。そして、その「いないことになっている少数民族」と「少数民族になった白石」が出会うとき、その「いないことになっている」という「概念」が吹き飛び「いる」が「事実」になる。
あ、これは私のことばには手に余る。とても書き切れない。私のことばは白石のことばを追いかける力を持っていいない。追いかけようとすると、どんどん引き離されるのを感じるだけである。
「幻竜」で全行を読んでください。
白井知子のことばは他人とぶつかる。他人というのは「知らないひと」のことである。「知らないひと」には「知らないこと」がある。
「ハイデ・メンデ・ギヨナ さあ 駆け落ちしよう」はトルコの土産物店で少数民族について尋ねたことから書きはじめている。「どんな人たちなのかしら」。
その日の夕刻
旅のトルコ人の通訳
三十代とおもわれる大柄のドプラックさんと
カッパドキアの景観を見はるかし ベンチに腰掛けるよう促された
--この国は 表向きには
少数民族の言語が自由になったみたいだけれど
まだ タブー視されているところあるからね
トルコ石の店での あなたの質問 ちょっと やばかったよ
--気づかなかったわ
それからいろいろ事実が語れる。それはみんな「気づかなかったこと」である。こういうことに出会ったとき、ことばはどうなるか。「事実」としてそこの存在しはじめる。それは白石には動かすことができない。それをそのまま認めるしかない。
これは当たり前といえば当たり前のことなのだけれど、多くの詩人のことばはたいてい白石のようには動かない。「事実」をそのまま「事実」として存在させるというよりは、自分の「肉体」をくぐらせ、自分の「肉体」になじんだ形にしてから「ことば」にしてしまう。感情や精神で、「汚して」そこに存在させる。白石はそうではなく、剥き出しのまま「事実」を存在させる。
知らなかった(気づかなかった)こと--「事実」の前では、ひとは、どんな存在でもない。それを受け入れることからはじめるしかないのである。
「気づかなかったわ」というのは何でもないことばだが、その何でもないと思われることをきちんとことばにすると、それに反応するように「他人」がそのまま動きだす。「気づかなかった」とき隠れていたひとたちが動きだす。
白石は、そういうひとたちを確実に受け止める。
そして、そこから白石の「肉体」が新しく動いていく。「他人」となって動いていく。白石は、「気づいた」他人を描写するのだが、そのとき白石は「他人」そのものになっている。
この詩でいえば、白石は「気づかなかった」ことに気づき、その「事実」を受け止めることで、いわば「トルコ人」、しかも彼女が「気づかなかった」少数民族のトルコ人になって、生きはじめる。
しだいに酔いがまわり
昨日 訪れたエフェソス
ギリシャ人がエーゲ海沿いにつくった植民地
多産や狩り 月の女神 アルミテス崇拝で知られた地
劇場には二万数千人が収容されるほどだったらしい
どんな出し物があたりを響動ませたのかしら
風の慟哭
わたしは つよく誘われる
長方形の布を二つに折って
肩のところでブローチでとめ
ウェストを飾り紐で結んで 襞をツケルキトンに身をつつむ
さあ エフェソスの遺跡まで歩く
劇場では 仮面をはずした人たちが
七十の少数民族の言葉で詩を暗誦しているわ
聴衆は心刺されている
堅い岩の席はまだあいている
舌をぬかれていたような人々が生き生き
押し殺されていた言葉を てらうことなく暗誦していく
氾濫する風よ
せめて 輪唱せよ これらの言葉を
かろやかに すずやかに
呪縛からとかれ
白石はトルコの少数民族に「なる」だけではなく、「風」にもなる。それは「ことば」そのものになるということである。詩になる、ということである。
この強いことば、あたらしいことばに、解説(というか、私のくだらない「説明」)はいらない。ただ、読めばいい。
そして、書き出しの、
カッパドキアに近いギョレメという街
日本語のうまい店員ぞろいの
いささか いかがわしい店で すったもんだのあげく
ごく小さなトルコ石の指輪を購入した
という部分と比較すると、白石のことばのすごさがよくわかる。最初は、とてもつまらない(失礼!)散文である。改行をやめて、ただつづければ、どこにでもある旅行の「散文」である。中学生の「作文」のようでもある。このことばが、「他人」に出会い、かわっていく。「気づかなかったわ」ということばを挟んで激変し、ついには白石自身が「トルコの少数民族」になる。
トルコには 少数民族は存在するけれど いないことになっている
「いないことになっている」はずの「他人」が「白石」として生きはじめる--白石がいないことになっている「少数民族」になって生きはじめる。そして、その「いないことになっている少数民族」と「少数民族になった白石」が出会うとき、その「いないことになっている」という「概念」が吹き飛び「いる」が「事実」になる。
あ、これは私のことばには手に余る。とても書き切れない。私のことばは白石のことばを追いかける力を持っていいない。追いかけようとすると、どんどん引き離されるのを感じるだけである。
「幻竜」で全行を読んでください。
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