詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(8)

2019-05-28 09:09:18 | 嵯峨信之/動詞
* (魂しいのはずれを)

魂しいのはずれを
ひとびとが通つている
そこをぼくはふるさとへの道という
でもだれひとりそこへたどりついた者はいない

 「魂しい」という表記は嵯峨独特のものである。ふつうは「魂」と書く。
 なぜ「魂しい」と書いたのか。
 「悲しい」「嬉しい」「淋しい」という表記を連想してしまう。
 「魂」は体言だが、「悲しい」「嬉しい」「淋しい」は用言。嵯峨は「魂しい」と書くことで、その存在を「用言」としつかみ取っていたのではないだろうか。

 私は「魂」というものを見たことがないので、その存在を信じていない。私自身からは「魂」ということばをつかうことばない。誰かがつかっていて、それについて何かを言うときだけ、仕方なしにつかうのだが。
 でも嵯峨の書いている「魂しい」が「名詞」ではなく「用言」なら、それは信じてもいいと私は思う。動いているものは見えなくても動きそのものを感じることはできる--たとえば風。
 「魂しい」とは、どういう動きをするのか。どういう動きを「魂しい」と呼ぶのか。

魂しいのはずれを
ひとびとが通つている
 
 どこかの「はずれ」(中心ではないところ)を通ること、その動きを「魂しい」と呼んでいる。そこにとどまるのではなく、あくまで「通る」。つまり「過ぎていく」。そこには通った後(軌跡)が残る。通ったという「軌跡」を残す運動を「魂しい」と呼ぶ。
 「軌跡」はまた「名詞」であるけれど、「通る」はたぶん完結しない。永久に「通る」。だから「軌跡」も未完のままの運動だ。
 通る、歩く。けれど「たどりつけない」。嵯峨はたどりつけないではなく「たどりついた者はない」と書くのだが。
 その「ない」という否定よって、初めて見えてくるもの。

 冒頭の「魂しい」を「悲しい」「淋しい」と読み替えてみたい気持ちになる。たぶん、そう読み替えても詩として成り立つ。人によっては「悲しい」「淋しい」ではなく「悲しみ」「寂しさ」というような形で書くかもしれないけれど。



*

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