監督 ジャン・ジャック・アノー 出演 ショーン・コネリー、クリスチャン・スレーター、F・マーリー・エイブラハム
ウンベルト・エーコの小説は私は読んでいない。長いので敬遠してしまった。読んでいないのにこんな感想は無責任かもしれないが、とてもよく「要約」された映画になっている。ショーン・コネリーの「過去」を描くシーンが少し物足りない。ことばでは「過去」が説明されるが、ショーン・コネリーの肉体にその「過去」の痕跡がない。つまり、「過去」が演技されていない。「過去」を演技するにはショーン・コネリーの肉体は頑丈過ぎるのかもしれない。あるいは、私が「007」のイメージでショーン・コネリーを見ているために、演技された「過去」を見落としているのかもしれないが……。
殺されていく人物が戯画化されすぎている(肉体的にも)かもしれないが、この映画の暗い画面では、これくらいの戯画化がないと人物の区別がつきにくいかもしれない。僧侶(修道士)など、特に見分けがつきにくい格好(服装)をしているのだから。
見どころは画面の暗さかもしれない。暗く汚れた画面にすきがない。まるでエーコの文体のようである。(と、読んでいないのに、私は書いてしまう。)その緊密な画面(画質)が反響し合って、塔の内部の迷路のような階段になる。ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが行き違いになり、はぐれ、再び会うまでのシーンがとてもいい。声が反響し合って、どこにいるかわからなくなる。目にみえるもの、耳に聞こえるものが、逆に人間を混乱に陥れる。その不安な構造が、構造として映像化されている。
外部から遮断され、しっかりと固められた内部、その複雑な構造--その構造そのものを内部から解体し、新しい構造につくりかえる。そういう「哲学」をそのまま再現した、象徴的なシーンだと思う。
他の細部もとてもおもしろく描かれている。クリスチャン・スレーターは「迷子」から抜け出すために、セーターをほどいて出発点にしばりつけておく。それをたどってショーン・コネリーはクリスチャン・スレーター最初の部屋に戻ることになるのだが、その前、秘密の入り口をなんとかしようとしているとき、ショーン・コネリーは「カチカチカチ」という不思議な音を聞く。「カチカチカチ、という音が聞こえないか?」「私の歯がぶつかる音です」。セーターがほどけた分だけ、クリスチャン・スレーターは「薄着」になっていて、寒いのだ。こういう細部、細部を「事実」に変えてしまう丁寧さが、嘘(虚構--ストーリー)を本物にする。
事件解決の手がかりとなる証拠、指先の黒いインクとそれを舐めたときの舌の黒いインクの色もしっかりと映像化されていて、映画はこういう細部で決まるのだと、改めて思った。
*
ジャン・ジャック・アノーの作品に「人類創世」がある。この映画にはとてもおもしろいシーンがある。そこに登場する男女は、最初「ドッグ・スタイル」で性交している。ところが、あるとき女が体位を変え、「正常位」の体位へ男を導く。(セックスで何が正常か決めるのはむずかしいことだが……。)男は驚くが、正常位によって、性交の瞬間、互いの顔を見ることができる。そこから感情の交流が生まれ、性交は愛の表現に変わる。このシーンは、ジャン・ジャック・アノーの手柄である。そして、その体位を最初に「発明」したのが女である、というのもジャン・ジャック・アノーの手柄である。
「薔薇の名前」とはあまり関係がないのだが、この映画の中でも、女がクリスチャン・スレーターのセックスのてほどきをしていた。それをみて、ふいに思い出したのでつけくわえておく。
(「午前十時の映画祭」48本目)
ウンベルト・エーコの小説は私は読んでいない。長いので敬遠してしまった。読んでいないのにこんな感想は無責任かもしれないが、とてもよく「要約」された映画になっている。ショーン・コネリーの「過去」を描くシーンが少し物足りない。ことばでは「過去」が説明されるが、ショーン・コネリーの肉体にその「過去」の痕跡がない。つまり、「過去」が演技されていない。「過去」を演技するにはショーン・コネリーの肉体は頑丈過ぎるのかもしれない。あるいは、私が「007」のイメージでショーン・コネリーを見ているために、演技された「過去」を見落としているのかもしれないが……。
殺されていく人物が戯画化されすぎている(肉体的にも)かもしれないが、この映画の暗い画面では、これくらいの戯画化がないと人物の区別がつきにくいかもしれない。僧侶(修道士)など、特に見分けがつきにくい格好(服装)をしているのだから。
見どころは画面の暗さかもしれない。暗く汚れた画面にすきがない。まるでエーコの文体のようである。(と、読んでいないのに、私は書いてしまう。)その緊密な画面(画質)が反響し合って、塔の内部の迷路のような階段になる。ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが行き違いになり、はぐれ、再び会うまでのシーンがとてもいい。声が反響し合って、どこにいるかわからなくなる。目にみえるもの、耳に聞こえるものが、逆に人間を混乱に陥れる。その不安な構造が、構造として映像化されている。
外部から遮断され、しっかりと固められた内部、その複雑な構造--その構造そのものを内部から解体し、新しい構造につくりかえる。そういう「哲学」をそのまま再現した、象徴的なシーンだと思う。
他の細部もとてもおもしろく描かれている。クリスチャン・スレーターは「迷子」から抜け出すために、セーターをほどいて出発点にしばりつけておく。それをたどってショーン・コネリーはクリスチャン・スレーター最初の部屋に戻ることになるのだが、その前、秘密の入り口をなんとかしようとしているとき、ショーン・コネリーは「カチカチカチ」という不思議な音を聞く。「カチカチカチ、という音が聞こえないか?」「私の歯がぶつかる音です」。セーターがほどけた分だけ、クリスチャン・スレーターは「薄着」になっていて、寒いのだ。こういう細部、細部を「事実」に変えてしまう丁寧さが、嘘(虚構--ストーリー)を本物にする。
事件解決の手がかりとなる証拠、指先の黒いインクとそれを舐めたときの舌の黒いインクの色もしっかりと映像化されていて、映画はこういう細部で決まるのだと、改めて思った。
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ジャン・ジャック・アノーの作品に「人類創世」がある。この映画にはとてもおもしろいシーンがある。そこに登場する男女は、最初「ドッグ・スタイル」で性交している。ところが、あるとき女が体位を変え、「正常位」の体位へ男を導く。(セックスで何が正常か決めるのはむずかしいことだが……。)男は驚くが、正常位によって、性交の瞬間、互いの顔を見ることができる。そこから感情の交流が生まれ、性交は愛の表現に変わる。このシーンは、ジャン・ジャック・アノーの手柄である。そして、その体位を最初に「発明」したのが女である、というのもジャン・ジャック・アノーの手柄である。
「薔薇の名前」とはあまり関係がないのだが、この映画の中でも、女がクリスチャン・スレーターのセックスのてほどきをしていた。それをみて、ふいに思い出したのでつけくわえておく。
(「午前十時の映画祭」48本目)
薔薇の名前〈上〉 | |
ウンベルト エーコ | |
東京創元社 |
薔薇の名前〈下〉 | |
ウンベルト エーコ | |
東京創元社 |
薔薇の名前 特別版 [DVD] | |
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