「失われたとき」のつづき。
西脇の詩には、ときどき「事件」が起きる。
ハイボールは罪悪の根元であるから
シェリー酒のたそがれの空を汲み
かわして蜜酒で永遠のちぎりを結んだ
二人は後世マネーという男が描いた
ようなポーズで休んだ
驚くべき会話もとりかわされた
「存在は存在しないところに存在する
存在は存在ではないところのものだ
すべての存在は舌と舌との間にある
ふれるだけの現実である
舌の先でふれる現実は
アカントスの葉のように
ふるえる 無限が終るようになる」
黒人女からミモザの花を買つて
二人は帽子にさして
また走りつづけた
リットル・ギディングという村まで五分と
いうところでこの偉大な事件が起つた
「存在は存在しないところに存在する」からはじまる行の「哲学」。それは何も説明されない。補足されない。「二人の会話」という形で提出されるだけである。これは、ひとりでは語られなかったことばであり、そして、そのことばは二人にとっては「補足」の必要がないほどわかりきったことがらである。二人の「肉体」になってしまっている。
そのわかりきったことがらというのは、「矛盾」(存在は存在しないところに存在する--は矛盾以外の何物でもない)という形でしか語ることができない。「矛盾」であるけれども、ふたりの「肉体」は、それを「矛盾」とは考えていない。
「肉体」が実感していること--体得していることといった方がいいのかもしれない。それは、「肉体」から外へ出るときは、「矛盾」になってしまう。それは「ことば」にならならずに、「肉体」のなかですべてを統合する何かである。「肉体」と切り離せない何かである。「肉体」と切り離せないもの、「いのち」、それは「矛盾」している。「矛盾」しているからこそ、幾層にも描くことができる。
そして、それは「ことば」にはならない。「ことば」にならないから、「舌と舌との間」という「肉体」であらわすしかない。
「存在」を「ことば」に置き換えてみるのもおもしろい。
ことばはことばのないところにことばとしてうまれる
ことばはことばになっていないところのものだ
西脇のことばは、その「哲学」どおり、ことばのないことろで生まれ、常にことばのないことろへと動いていく。
それが西脇の詩である。
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