賞状を受け取る秋亜綺羅
装丁について説明する秋亜綺羅
秋亜綺羅「詩ってなんだろう」(丸山豊記念現代詩賞受賞記念講演、2013年05月11日、石橋文化会館)
秋亜綺羅の丸山豊賞授賞式に行ってきた。「あいさつ」「朗読」「講演」と3回秋亜綺羅の声を聞く機会があったが、最初の「あいさつ」でびっくりした。訛っている。正しい表現かどうかわからないが、東北訛り、を感じた。私が秋亜綺羅の声を聞くのは40年ぶり、学生時代以来なので、正確な記憶にもとづいているとはいえないかもしれないが、秋亜綺羅は学生時代訛っていなかった。あれっ、これは演技? それとも仙台に帰って40年、その年月の間に訛りはじめた?
うーん。
さて、「講演」。
講演をはじめる前に(?)、受賞した詩集の宣伝をした。宣伝といっても、装丁の説明である。カバーをはがすと、表紙にはカバーのイラストが写真であらわれる。裏のカバーをはずすと裏表紙には写真のイラスト。写真(実物)とイラスト(偽物?)が錯綜する。さらに本の中表紙というのか、扉の説明。黒い海の上に青い空。この空は実は黒を重ねたもの。黒いインクに黒を重ねるとさらに黒くなるのではなくて青が浮かびあがる。さらにタイトルが記された部分は白い紙に(青っぽい灰色)紙に黒で印刷してあるのではなく、実は黒い紙に白を二回塗り重ねている……。
これって、何? 装丁に、こんなに工夫をしている--というよりも、実は装丁にはこういう仕掛けがある、という説明だね。そして、秋亜綺羅にとっては、「仕掛け」、あるいは「仕掛けの存在」を認識することこそが、たぶん詩の入り口なのだ。だから、まず、そういう「仕掛け」のわかりやすい部分を取り上げたということだろう。
何気なく語りはじめたようで、実は、きちんと練られた作戦のようだ。
いくつかのことを話したのだが、ちょっと順序が話した通りではないかもしれない。印象に残ったのは、秋亜綺羅が仙台で若い人の詩に与える賞の選考をしているということ。そして、そのときの受賞者が過去2回、高校の文芸部の生徒の作品ではなく演劇部の生徒のものだったということ。そこにも「仕掛け」が見え隠れしている。
なぜ演劇部の生徒のことばがおもしろいかということに対して、秋亜綺羅は演劇部の生徒の方が演技をとおして「自分ではなくなる」ということをやっていて、それがつかうことばに刺戟的な形であらわれている。文芸部の生徒の作品は、「ほんとうの自分(嘘のない自分)」を追求していて、そこには明確な違いがあったという。「自分ではなくなる」という具体的な例として、最初の受賞者は、授賞式のとき、受賞した作品を朗読するのではなく、ほんもののナイフを振りかざして、恋敵を殺し、料理し、恋人に食べさせるという詩を朗読した、とも語った。その詩に書かれているのは「ほんものの自分」ではなく、ことばをとおして生まれた「新しい自分」。
あ、これって詩の評価そのものなのかなあ。秋亜綺羅が、詩を、演劇に近いものでとらえようとしていることの「反映」じゃない? 「仕掛け」を詩ととらえようとしているから、それが秋亜綺羅にはおもしろく見えるのでは? 演劇部の生徒の書いた詩はたしかにおもしろいのだろうが、そのおもしろさを取り上げ評価する視点が秋亜綺羅の側に強いために、そういうことが起きているのでは? 「仕掛け」好みを高校生が見透かしているのでは? 自分のほんとうに書きたいことではなくても、審査員が好んでくれるならそれにあわせる、ということくらい高校生はするものである、と書いてしまうと意地悪すぎる見方になるけれど、ちょっと、そう思った。
脱線した。
高校生が実際に恋敵を殺して料理し、恋人に食べさせるということをしたわけではない。けれど、そういう「仕組み(芝居)」のなかで自分の気持ちを発見し、動かした。そこにはいままでいなかった「人間」が誕生してきている。それがおもしろい--と秋亜綺羅は言う。
そこからわかることは。
秋亜綺羅にとっては「仕掛け」とは何かを誕生させる装置なのである。そして、その「何か」とは新しい自分、いままで世界に存在しなかった人間のことである。
秋亜綺羅は、新しい人間になってみようよ、と若い人たちを励ましているのである。ことばは道具--ではなく「仕掛け」、いや、「仕掛け」をつくるとことばは詩になる、ということかな?
ことばと詩について。
ふつうは、ことばを道具と考える。何かを伝えるための道具。詩を書くための道具。
でも、たとえば母親と新生児。その二人がいる世界に、ことばはない。少なくとも赤ん坊は話せない。(このことについては、私は疑問をもっているが、まあ、省略)そこにことばはないけれど、詩、はある--と秋亜綺羅は言う。
美しい夕焼けに感動している自分。そのとき夕焼けと私の間には、やはりことばはない。それでも、そこには詩はある。詩は、ことばがなくても存在する--と秋亜綺羅は言う。
詩は、ことばのないところに存在する、と言い換えた方がいいかもしれない。--これは、私の「誤読」。秋亜綺羅が言ったのは、ことばがなくても詩はある、だった。
で、そこにことばがないのだとしたら、それを詩にするためには、どうするか。秋亜綺羅は、唐突に、自分が夕焼けになるしかない、という。
ほう。
でも、どうやって夕焼けになる? そのことを秋亜綺羅は言わなかったなあ。
言わなかったのだけれど、これはちょっとおもしろい。
秋亜綺羅は、いつでも「自分でなくなる」ときに詩を感じている。自分が自分ではなく、夕焼けになれば、それが詩。これはロマンチックな例だけれど、先に紹介した高校生はナイフを振りかざして恋敵を殺し料理し、恋人に食べさせる--そういうことをことばにするとき、その高校生は、いま/ここにいる高校生ではない。「自分ではなくなっている」。それを見て、秋亜綺羅は、それがいい、というのである。それが詩であるというのである。
「自分ではなくなる」--そういう人間を見ると、秋亜綺羅は興奮する。自分もそうなりたいということだろう。
とてもわかりやすい。
あ、そのとおりだなあ、と思う。自分が自分でなくなってしまう、そのとき、たしかにそこに詩は存在すると私も思う。
めざすもの(結論)は同じ……。
でも、私はつまずいた。秋亜綺羅の考えていること、感じていることは、よくわかったつもりになるが、つまずいた。
それって、詩ではなく、まさしく演劇そのものでは?
そして、その演劇って、あまりにことば、ことばしていない? あるいは仕掛け、仕掛けしていない? 見せ物小屋(仕掛け)が芝居の原点とは言うけれど、私の知っている演劇的なるものとは、かなり違う。(これは長くなるので省略。概略を言うと、演劇は「肉体」の特権が不可欠。)
そう思っていると、秋亜綺羅はこんなことを言った。
人を石で殴って殺す。頭を割る。そうするとひとは死ぬけれど、石そのものは頭の中へ入っていかない。けれど、ことばは頭の中へ入っていくことができる。頭の中に残る。そして、そのひとを頭の中から殺す。これは、逆に言えば、頭の中で新しい人間を誕生させるということにもなるが--とは、私の「誤読」。
あ、やっぱり頭なのか。秋亜綺羅にとっては、ことばは頭と向きあって動いている。ことばが動くとき、動くのは頭である。言い換えると、想像力--これも、私の「誤読」。だからね、
表の裏は裏
裏の裏は表
では、表の表は?
これは「頭」のなかで動くことば。表も裏も、そこでは何かを判断する「仕掛け」である。「仕掛け」などなくても表は表、裏は裏として存在するのに、秋亜綺羅はそこに「仕掛け」をもってきて、頭に「仕掛け」を印象づける。問題になっているのは、表/裏ではなく、「仕掛け」なのだ。「仕掛け」とともに、頭が動くということである。
肉体にとって、表/裏なんて、ない。見えるのはつねに目の方を向いているもの。そこがなんであれ、表で通用する。区別する必要があるときだけ、便宜上「表/裏」ということばを使う。1万円札を使うとき、表/裏を気にして使う人いる? いないでしょ? 裏を出して買い物をすると拒否される? 関係ないでしょ。
人間は、現実とは関係ないものにも、ことばをまぎれこませ、変なものをつくりだしている。
その変なものを、「仕掛け」によって拡大してみせる。「現実」には「仕掛け」がたくさんある。そのために「仕掛け」にしばられているかもしれない。だから「仕掛け」をこわす「仕掛け」をつくろうよ、ということかな? そうならいいのだけれど。
もう一つ。
秋亜綺羅は若い人たちのすることに「だめ」とは言わないことにしていると言った。なんでも言っていい。なんでもやっていい。そこから新しい自分が誕生する。禁忌の禁止である。
そういうことを言ったとき、ある高校生(?)がこんなことを言った。「教室に火をつけて朗読してもいいですか」
秋亜綺羅のこたえ。「いいよ、でも逃げるときはいっしょに逃げようね」
あ、これはずるい。
そして、これこそ、秋亜綺羅がこどばを「頭」で動かしている証拠のようなもの。
「逃げるときは」というのは仮定。ことば。「教室に火をつける」という仮定をそのまま押し進めるのではなく、別の仮定をつけくわえることで、ことばの方向を転換している。「仮定」を「仕掛け」と言い換えると、秋亜綺羅のしていることがよくわかると思う。
いま/ここには既製の仕掛けがあふれている。その仕掛けを破壊するには新しい仕掛けが必要である。新しい仕掛けとともに、新しい人間が生まれてくる。
うーん、このことを肯定した場合、その踏みとどまり方がとてもむずかしい。
だって、資本主義の世界というか、現実は、実際にそうやって人間を動かしている。スマートフォンをつくり、そんなものなど必要のない人にまでスマートフォンがあるとこんなことができる(そういう新しい人間になることができる)。新しい仕掛けで新しい人間をつくり、新しい商品を売って拡大する世界が現実だからね。
あ、何を書いているのか、少しわからなくなってきた。ことばのなかで「頭」の占める領域がだんだん大きくなってきた。「頭でっかち」のような気がしてきた。
これは、秋亜綺羅自身が気づいていることかも。だからこそ、ことばを、紙の上から解き放そうとする。肉体で「仕掛け」の印象を薄めようとする。(これは、見方が意地悪すぎる?)
だから、訛り。わざと、ことば(意味)ではないものの方に意識を向けさせる。
朗読が単独で行なわれるではなく、そこに音楽が加わり、舞踏が加わる。今回の朗読のとき、「朝陽のあたる家」(録音)、橋口武史のギター、伊藤文恵の舞踏が加わった。いわゆるパフォーマンスというやつ。さらに、秋亜綺羅は舞台で裸足になって朗読した。裸足は「肉体」の強調である。--これは、逆に言えば、肉体を強調しないことには、そこには「ことばの仕掛け」だけがあふれてしまうということではないだろうか。そう知っていて、秋亜綺羅はわざと訛り、わざと裸足になる。
さて、こういう「仕掛け」にどう向き合うといいのか。
(写真は、授賞式の秋亜綺羅と朗読パフォーマンス)
透明海岸から鳥の島まで | |
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リンクによる紹介、ありがとうございます。
私は40年ぶりに秋に会ったので、ちょっと同窓会の気分で気楽に感想を書きました。
若かりし頃の気持ちを思い出しました。
くるめんもん.com の中島正順というものですが、毎年行っている丸山豊詩賞の授賞式に行けなかったので、記事を探しておりました。このページをリンクさせて頂きました。
ふつごうな場合はお知らせ下さい。
勝手なお願いですみません。