詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「手でくるんで(1972)」より(13)中井久夫訳

2009-02-13 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
見せ場    リッツォス(中井久夫訳)

廊下に立っていた。さびしげな女。法務官。衛兵。
ロープでしばった毛布が床に。隣の事務室で電話が鳴った。
「四時に」と声が聞こえた。「 船が着く」
「四時」と彼等は言った。「きっかりだ」。鋼鉄の扉がもう一度きしった。
まだ法廷に送り込む気だ。「あなたに煙草を送るわ」と女が呟いた。「遅いわい」と衛兵。
壁に大きな蜘蛛が這う。二番目の扉が
突然開いた。男の死体がうつぶせに倒れてきた。衛兵が蜘蛛をつかんだ。
死体の口に突っ込んだ。
笑った。顎は引き締めたままで。
「しゃべれ」と死体に叫んだ。「吐け」。
「白状しろ」と死体を脅かした。死体は一言も言おうとせぬ。死体は笑った。
女は毛布に腰をおろして顔を手で蔽った。



 扉の向こう側で行われているのは訊問か、拷問か。いずれにしろ、向こう側にいるのは女の知り合い、夫か、恋人か、父か、息子か。その身を心配している。姿が見えず、声だけが聞こえる。電話の話し声が聞こえるということは、訊問か、拷問の声も聞こえるかもしれない。このとき苦しいのは、訊問・拷問を受けている男もそうであろうが、その姿を想像する女も同じだろう。見えない。声だけが聞こえる。そのときの、はりつめた恐怖と不安。
 壁を這う蜘蛛--その、人間とは無関係に動くものの存在が、恐怖と不安をいっそう強くする。
 そして、突然、死体。そして、乱暴な衛兵の行為。口に蜘蛛を突っ込む、というのは、何か意味があることなのかもしれない。ギリシアの習慣がわからないのだが……。死体であるから、反応はない。反応がないことを知っていて、衛兵は乱暴をする。そこに、衛兵の人間としての醜さが露骨にでている。
 そういう行為を死体が笑う。--これは強烈な批判である。

 ところで、この詩の最後の1行は、とても不思議である。中井久夫の、いまの形の1行では、「顔を蔽った」というときの「顔」は「女の顔」になると思う。「顔を蔽った」、つまり「泣いた」という意味になると思う。
 しかし、最初の中井の訳は

女は毛布に死体の腰をおろして顔を手で蔽った。

 である。初稿では「死体の顔」。推敲の結果、「死体の」が削除されている。「死体の」がなくても「死体の顔」と読者が読むと判断したのかもしれない。そうではなくて、「死体の」が誤読であると判断して、削除したのかもしれない。どちらかわからないが、「死体の」顔が「原文」の意味だとしたら、ここに書かれている内容は、とても複雑で、より強烈になる。
 死体は笑った。その死体の顔を隠す。(「蔽った」も中井は最初、「隠した」と訳している。)それは、死体さえもが軍政を批判して、あざ笑っているというだけではなく、そういう死体を軍政はさらに傷つける--それを恐れて女は愛する男と顔を隠した、ということになる。軍政のむごたらしさを、より強烈に暗示することになる。

 この作品では、訊問・拷問から聞こえてくる声、音は書かれていない。書かれていないことによって、それがより強烈に見えてくる。書けないような、むごたらしさが存在するのだ。同じように、ここでは軍政が死体をどんなふうにあつかうかは、死体の口に蜘蛛をつっこむということしか書かれていないが、ほんとうは、もっともっとむごたらしいことをするのである。それを心配して女は死体の顔を隠した。笑う顔を隠したのだ。

 書かれないものの方が、書かれたものより強烈である。
 --リッツォスには、そういう思いが強いな野かもしれない。だから、リッツォスは、できるかぎりことばを省略する。「物語」を「もの」の断片にして、それをつなぐ力を隠して表現する。「もの」だけを孤立させて、「もの」の背後を読者に想像させる。私はギリシア現代史を知らないのでよくわからないが、ギリシアの国民には、「もの」の背後がくっきり見えているに違いない。
 最後の行の訳は、そういうリッツォスのことばを運動に沿った訳なのだろうと思う。

 決定稿だけでなく、初稿→推敲という過程を読む楽しさを、今回はじめて知った。




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