詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「シュールぼくの言い訳」

2009-02-13 09:05:54 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「シュールぼくの言い訳」(「白黒目」15、2009年01月発行)

 豊原清明「シュールぼくの言い訳」は映画の脚本である。「ぼく」の最近の写真と子どものときの写真についての映画という説明がついている。

○現在のぼくの目が映る
ぼくの声「だらだらしやがって と、昔よく父が言っていた。親にも教師にも言われた」

○小学校アルバムの集合写真
   同級生の顔をスーパーの紙で覆い、僕の顔だけ見えるように、穴を開けて、映す。

○14歳の風引きの顔と、三十一歳の学生証の顔が、フラッシュする。

○台所を映す(夜)
ぼくの声「ぼくは何処へ行くのか。一回でも、
 中学の頃のように疾走したいものだ。」

○冬の道
   父と一緒に田舎道を歩いている。
   ある程度、歩いて汗を掻く。
   ぼくの汗と、ぼくの目を撮ってもらう。
ぼく「ここは安住の場所ではない。」

 とてもリズムがいい。せりふは断片的だが、とてもよくわかる。「いま」「ここ」に対する違和感。その違和感が、昔の写真を見ることで、いっそう広がっていく。「いま」「ここ」から、「いま」「ここ」ではないところへ行ってしまういたい。
 だが、そのとき、「いま」「ここ」にいる「ぼく」を捨ててしまうのではない。「ぼく」は「ぼく」のまま、「ぼく」の肉体のまま、存在しつづけたい。--この欲望が、あらゆるひとに共通のものかどうか、実は、私にはよくわからない。「いま」「ここ」にいる「ぼく」を捨ててしまい、どこかへ行ってしまうことは、「ぼく」ではなくなることだと私は思っているが、豊原はたぶんそんなふうには考えていない。ずーっと、自分の肉体というものを愛している。「ここ」は「ぼく」にとって「安住の地ではない」かもしれないが、「ぼくの肉体」は「ぼく」にとって「安住の地」なのだ。自分自身に対する不思議な信頼というものがある。その信頼が、とてもあたたかく感じる。
 自分の肉体を傷つけ、その痛みによって自己存在を知る--という人間がいる。自分の精神をわざと傷つけ、こころの痛みによって自己を認識する--という人間がいる。豊原はそういう人間とはまったく違う。自分をとても大事にしている。そして、そこには自分を大事にする人間だけがかかえこむひろがりがある。自分からはみだしてゆくものがある。--あいまいなことしか書けないが、そういうものを感じる。

ある程度、歩いて汗を掻く。

 この感覚がとてもいい。「ある程度」。いつも豊原の周囲には「ある程度」がある。「一瞬」というより、「ある程度」の時間のひろがりがある。時間の幅がかかえこむ「まじっりけ」がある。たとえば、ここでは汗。「肉体」のなからから、自然ににじんできたもの。汗をかこうとして歩いているのではないが、歩いていれば自然に汗が出る。それは自然な肉体の変化である。「ある程度」はそういう自然の変化を受け入れてくれるひろがりのことである。

 変化。変化としかいいようのない、ぶれ。それが、とてもなつかしい。

 脚本の最後の部分。

○父の背中を撮る
ぼくの声「お父さん」

○ぼくの背中を撮る(長めに)

○サボテンを撮る
   腐りかけたサボテンに向かって、
ぼくの句「われ病むや海辺で太鼓ならしてる」

 不思議な変化。それを肉体をなじませるために、豊原は「時間」を必要としている。「ある程度」というひろがりを必要としている。そのひろがりは「遊び」と呼ばれるものに少し似ているかもしれない。機械や何かの、動きをスムーズにするための「遊び」。きっちりしているのではなく、わざときっちりしていなもの。その「わざと」と「ある程度」が重なり合う。そして、何かを豊かにする。
 その不思議な豊かさ--それを感じる。

 この脚本が映像になったものを知らないので、「脚本」ではあるけれど、このブログの「ジャンル」では「詩」として「分類」しておくことにする。





夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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