中井久夫訳カヴァフィスを読む(92)
「シドンの青年、紀元四〇〇年」は何かの催しのために俳優を呼んだ。その俳優が「アイキュロス、アテナイの人、エウフォリオンの子、ここに眠る」を読んだ。すると、そのときひとりの青年が叫んだ、という詩である。
これは戦闘よりも文学(詩)を上に置く主張である。
そして、引用は前後するのだが、その声を張り上げたきっかけについて、カヴァフィスが書いている注釈のようなもの、感想の類がとてもおもしろい。
そんなことを叫んだのは、
と推測している。どの行(どのことば)を問題としているかというよりも、「必要以上に強調したのじゃないかな」の「必要以上に」がカヴァフィスらしいと思った。カヴァフィスの詩のことばは簡潔で、修飾語をもたない。形容詞を必要としていない。形容詞によって、ことばが「必要以上」のものにさせられるのが嫌いだったのだろう。
形容詞によって詩の世界を統一すること、ひとつの傾向にすることが嫌いだったのだろう。形容詞が多くなると、そこに書かれている「もの」「こと」の本質が見えにくくなる。形容詞が多くなると、そこでは「表層」が動きの中心になってしまう。「こと」の運動が見すごされてしまう。これを「抒情的」という。
「必要以上」を拒む--これはカヴァフィスの詩の方法そのままである。カヴァフィスは「もの」「こと」から形容詞を剥ぎ取って、ものの本質だけをさらけだす。大きな「主観」を書きあらわすためには、「表層」ではなく強固な「もの自体」が必要だ。
形容詞は「もの」の表層を飾るだけではなく、「もの」の表層を多い、「もの」にも内面があるということを隠してしまう。
これはまた戦争批判である--と書くと書きすぎだろうか。鎧、兜、剣で武装してたたかうとき、ほんとうの「肉体」だけの強さが分からない。人間の真の強さは武装によってえられるのではなく、「内面」からあふれる教養(文学)でなくてはならない。
「シドンの青年、紀元四〇〇年」は何かの催しのために俳優を呼んだ。その俳優が「アイキュロス、アテナイの人、エウフォリオンの子、ここに眠る」を読んだ。すると、そのときひとりの青年が叫んだ、という詩である。
「その四行詩、待った。
そんな気の抜けた感傷はよせ。
ありったけの気合を入れろよ、いいか、自分の仕事に、
いいから仕事以外は一切忘れて--。して仕事だけは忘れるな。
苦しい時にも、人気低落開始の時にも。貴方に望むことはそれ。
貴方もダテス、アルタフェルネスと闘ったが、
ただの兵士、大勢の中の一匹としてだろ。
そんなものの記念のために、
頭の中からすっぽり抜けたらいかんぞ、
これは戦闘よりも文学(詩)を上に置く主張である。
そして、引用は前後するのだが、その声を張り上げたきっかけについて、カヴァフィスが書いている注釈のようなもの、感想の類がとてもおもしろい。
そんなことを叫んだのは、
(俳優は必要以上に強調したのじゃないかな、
「その世に隠れもなき武勇」と「神聖なマラトンの木立」を)、
と推測している。どの行(どのことば)を問題としているかというよりも、「必要以上に強調したのじゃないかな」の「必要以上に」がカヴァフィスらしいと思った。カヴァフィスの詩のことばは簡潔で、修飾語をもたない。形容詞を必要としていない。形容詞によって、ことばが「必要以上」のものにさせられるのが嫌いだったのだろう。
形容詞によって詩の世界を統一すること、ひとつの傾向にすることが嫌いだったのだろう。形容詞が多くなると、そこに書かれている「もの」「こと」の本質が見えにくくなる。形容詞が多くなると、そこでは「表層」が動きの中心になってしまう。「こと」の運動が見すごされてしまう。これを「抒情的」という。
「必要以上」を拒む--これはカヴァフィスの詩の方法そのままである。カヴァフィスは「もの」「こと」から形容詞を剥ぎ取って、ものの本質だけをさらけだす。大きな「主観」を書きあらわすためには、「表層」ではなく強固な「もの自体」が必要だ。
形容詞は「もの」の表層を飾るだけではなく、「もの」の表層を多い、「もの」にも内面があるということを隠してしまう。
これはまた戦争批判である--と書くと書きすぎだろうか。鎧、兜、剣で武装してたたかうとき、ほんとうの「肉体」だけの強さが分からない。人間の真の強さは武装によってえられるのではなく、「内面」からあふれる教養(文学)でなくてはならない。