池田順子「水域」(「ガーネット」61、2010年07月01日発行)
池田順子「水域」は突然はじまる詩である。状況が書かれていない。書かれていないから、勝手に想像するのだけれど、これはとてもいい詩である。
その全行。
池田は父といっしょにいる。そこでどんなことばが交わされたか。あるは交わされなかったか。たぶん、ことばは交わしていない。ことばは交わさなくても、父と子であるから、通じるものがある。
父のからだが揺れ(ぐらりと傾く)、「わたし」のからだもゆれる。傾く。
それを「水」の揺れとして池田は書いている。人間のからだのなかにはいろいろな「水」があるが、ここに書かれている「水」は涙である。涙が、からだの奥からこみあげ、のどもとを押し上げ、いま「目がしら」まできている。あふれる寸前である。
それにあわせて池田の「水」もかさを増し、父の「水」が池田のからだのなかに次々にそそぎこまれ、池田の涙も限界水域を越える。
ことばがうまく動いてくれない。
そのかわり、「水」はどんどん積み重なるようにして高くなる。
ふたりのからだを突き破って、夏の雲、入道雲のように、高く高くのぼっていく。空さえ押し上げる。
この「共感」がいい。
2連目、
この「わかる」は、「やまが/いっさいに後退していく」と感じる父の感じ方、気持ちが「わかる」である。
「気持ち」の「共有」。それが「わかる」。
「わかる」から、ことばはいらない。「わかる」とは、和解でもある。
池田順子「水域」は突然はじまる詩である。状況が書かれていない。書かれていないから、勝手に想像するのだけれど、これはとてもいい詩である。
その全行。
おおきなからだが
ぐらりとかたむいて
ふいにからだのなかの水域が
高くなった
父の
目がしら
背後のやまが
いっせいに後退していく
のがわかる
つられて
よろめいた
わたしの
からだのなかの水域が
危険水位を越え
高くなっていた
父のからだから
わたしのからだへ
うごくみず
ことばがはまる
くいにひっかかったり
浮いたり
沈んだり
ことばがいっしょに
おしながされて
雲になる
夏の雲が
空をおしあげていく
池田は父といっしょにいる。そこでどんなことばが交わされたか。あるは交わされなかったか。たぶん、ことばは交わしていない。ことばは交わさなくても、父と子であるから、通じるものがある。
父のからだが揺れ(ぐらりと傾く)、「わたし」のからだもゆれる。傾く。
それを「水」の揺れとして池田は書いている。人間のからだのなかにはいろいろな「水」があるが、ここに書かれている「水」は涙である。涙が、からだの奥からこみあげ、のどもとを押し上げ、いま「目がしら」まできている。あふれる寸前である。
それにあわせて池田の「水」もかさを増し、父の「水」が池田のからだのなかに次々にそそぎこまれ、池田の涙も限界水域を越える。
ことばがうまく動いてくれない。
そのかわり、「水」はどんどん積み重なるようにして高くなる。
ふたりのからだを突き破って、夏の雲、入道雲のように、高く高くのぼっていく。空さえ押し上げる。
この「共感」がいい。
2連目、
背後のやまが
いっせいに後退していく
のがわかる
この「わかる」は、「やまが/いっさいに後退していく」と感じる父の感じ方、気持ちが「わかる」である。
「気持ち」の「共有」。それが「わかる」。
「わかる」から、ことばはいらない。「わかる」とは、和解でもある。