近岡礼『階段と継母』(思潮社、2014年09月20日発行)
近岡礼『階段と継母』を読みながら、詩とはイメージの切断と接続である、ということばを思いついた。おもしろいのだ。
詩は、行頭がふぞろいで、行末がそろっている。簡単に言うと詩の形が三角形のようになっている、山のようになっている。そのまま引用するのはかなり面倒なので、頭をそろえた形で引用する。(原文は縦書き、詩集で本来の形を確認してください。)どれを引用してもいいのだが、「階段が飛び立つ時」の2連目。
切断と接続--その緊張感、不規則が生み出す音楽がおもしろい。
そう書こうと思っていたのだが……。
私は、引用しているうちに、気持ちが変わってしまった。最初に読んだときと、引用のために詩を書き写している「時間」のあいだで、何かががらりと変わってしまった。最初に読んだときの気持ちをむりやり思い出して書けば(もう、違っているかもしれないけれど……)、「久し振り」から「無機質」への飛躍の大きさについて書きたいなあ、そこから何か書けるかなあと感じていたのだが、その感動(?)が突然、消えた。飛躍があるように見えたのに、それが消えてしまった。
どうしたんだろう。
詩を、頭ぞろえで引用したためだ。形を変えたためだ。
読んだときは、1行目から2行目へ進むとき、視線が「限界」のない「上」をめざして動く。どこに2行目のはじまりがあるか見当がつかない。その見当のつかなさが「切断」をつくっていた。そして2行目の最初のことばが見えると、それが突然「接続」になる。その「印刷(表記)」のつくりだす「空白」が、私の考えに影響していたのだ。
ことばを読むときの「視線」そのものの「移動領域」は変わらないはずだが、次の行がどこからはじまるかわからないという「不安」が「切断」となって働き、たどりついた瞬間に「接続」に変わっていたのだ。
行頭をそろえている場合は、視線の「移動領域」が自然にきまってしまう。だから「切断」をそれほど感じない。
ことばを「目で読む」ために起きていた「切断」と「接続」だったのだ、と突然気がついた。
そのときから、近岡のことばが、急に「わざと」らしく見えてきた。
「現代詩」は「わざと」書かれたことばであるけれど、その「わざと」がどうも落ち着かない。ストーリーを隠しているような「わざと」に感じられる。ストーリーというのは「時間の持続」である。それを詩の形の「空白」を利用して「切断」にみせかけている。近岡のことばのなかに「流通言語」の「暗喩」としてのストーリーがあって、うーん、なんだかなあ……と突然気持ちが変わってしまった。
いま引用した部分で言えば、「幼年時代のように初々しい」というようなことば。「幼年時代」がストーリーを用意している。「叩かれはしなかった」が何事かを暗示し、それを「一度を除いては」で念押しをするようにストーリーが動く。ことばのなかからドラマ(存在自体の劇)が消えて、「もの/こと」が時間に従属してしまう。イメージがストーリーを破壊するとき噴出する詩が消えてしまう。
「気まぐれであろうと」の1連目。
尻ぞろえだと、行頭がどこにあるかわからず読んでいて不安になる。うまくことばを追いつづけることができるだろうかと、どきどきする。そして、4行目が特に印象的なのだが、カタカナになにやら漢字熟語がぶつかりながら下へ下へとことばが落ちていく感じを、最後に「雄々しい」で受け止めるとき、そこにドラマがあるような気持ちにさせられる。不規則な切断と接続が、ドラマの緊張感のように思える。
ところが、これを行頭をそろえた形にすると、
4行目は、きざなカタカナと漢字熟語が頭で連結されてそこにあるだけという感じがしてしまう。「人獣」って、なんだろう。何の比喩だろう。そんなものは「現実」にはいない。架空の「ストーリー」のなかにしかいない。そんなものが「戦陣訓」だの「恐怖と義務」といっても「ストーリー」にすぎないと思ってしまう。
だから、(以下は、また行頭をそろえた形で引用してしまうが)
「明るくなった」から「でもここが好きで」までは、行頭をそろえても刺戟的でとても気持ちがいいのだが、それが「継母」から突然古くさい「ストーリー」にかわってしまい(昔の少女漫画みたい……)、さらに「宿業」という「ストーリー」としかいいようのない「時間」に吸い込まれてしまう。
「宿業」なんて、いったいいつの時代の「ストーリー」なんだろう。いつの時代の「流通言語」なのだろう、とそのことが気になってしまう。「世間(複数の人間)」がつくりあげる、「複数のためのストーリー(流通芝居)」は個人とは無縁。「世間」を都合よく動かすための装置にすぎない。怨念とか悲しみという「情(じょう)」を吸収し、権力の無能をごまかす装置だ--というと、まあ、言いすぎになるんだけれど、腹が立ってくると私はどこまでも暴走する。
「HORIZON BLUE」は、タイトルからして「ストーリー」を抱え込んでいるし、そのなかほど(また、引用は頭揃えでしてしまうのだが……)
「何故出てきたのだろう」「何故聖堂に籠もっておれないか」ということばを変えただけの反復でストーリーを無理矢理動かすことにもなる。
詩の見かけの形をかえることで、ことばの「表情」を違ったものにみせるという「技法(手法?)」はそれはそれで「詩」なのかもしれないが、うーん、何か変だなあと思ってしまう。
でも、不思議。
最初は「この詩集はおもしろい」と書くつもりだったんだがなあ……。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
近岡礼『階段と継母』を読みながら、詩とはイメージの切断と接続である、ということばを思いついた。おもしろいのだ。
詩は、行頭がふぞろいで、行末がそろっている。簡単に言うと詩の形が三角形のようになっている、山のようになっている。そのまま引用するのはかなり面倒なので、頭をそろえた形で引用する。(原文は縦書き、詩集で本来の形を確認してください。)どれを引用してもいいのだが、「階段が飛び立つ時」の2連目。
久し振りだったね
無機質の君たちに親しみを覚えるのはどういうことか
灰一色の空に向かってみれば柔らかい
観葉植物の大きい葉は「いえいえ」と甘えた口調です
階段は縦縞の腹を百足か青大将のように鎮静しているが
呼吸はしているようだ
階段の上に見えるあの あの青い木は
どういうことだ 幼年時代のように初々しい
わたしは叩かれはしなかった 一度を除いては
切断と接続--その緊張感、不規則が生み出す音楽がおもしろい。
そう書こうと思っていたのだが……。
私は、引用しているうちに、気持ちが変わってしまった。最初に読んだときと、引用のために詩を書き写している「時間」のあいだで、何かががらりと変わってしまった。最初に読んだときの気持ちをむりやり思い出して書けば(もう、違っているかもしれないけれど……)、「久し振り」から「無機質」への飛躍の大きさについて書きたいなあ、そこから何か書けるかなあと感じていたのだが、その感動(?)が突然、消えた。飛躍があるように見えたのに、それが消えてしまった。
どうしたんだろう。
詩を、頭ぞろえで引用したためだ。形を変えたためだ。
読んだときは、1行目から2行目へ進むとき、視線が「限界」のない「上」をめざして動く。どこに2行目のはじまりがあるか見当がつかない。その見当のつかなさが「切断」をつくっていた。そして2行目の最初のことばが見えると、それが突然「接続」になる。その「印刷(表記)」のつくりだす「空白」が、私の考えに影響していたのだ。
ことばを読むときの「視線」そのものの「移動領域」は変わらないはずだが、次の行がどこからはじまるかわからないという「不安」が「切断」となって働き、たどりついた瞬間に「接続」に変わっていたのだ。
行頭をそろえている場合は、視線の「移動領域」が自然にきまってしまう。だから「切断」をそれほど感じない。
ことばを「目で読む」ために起きていた「切断」と「接続」だったのだ、と突然気がついた。
そのときから、近岡のことばが、急に「わざと」らしく見えてきた。
「現代詩」は「わざと」書かれたことばであるけれど、その「わざと」がどうも落ち着かない。ストーリーを隠しているような「わざと」に感じられる。ストーリーというのは「時間の持続」である。それを詩の形の「空白」を利用して「切断」にみせかけている。近岡のことばのなかに「流通言語」の「暗喩」としてのストーリーがあって、うーん、なんだかなあ……と突然気持ちが変わってしまった。
いま引用した部分で言えば、「幼年時代のように初々しい」というようなことば。「幼年時代」がストーリーを用意している。「叩かれはしなかった」が何事かを暗示し、それを「一度を除いては」で念押しをするようにストーリーが動く。ことばのなかからドラマ(存在自体の劇)が消えて、「もの/こと」が時間に従属してしまう。イメージがストーリーを破壊するとき噴出する詩が消えてしまう。
「気まぐれであろうと」の1連目。
明るくなった階段に
その上を飛ぶトビ? カラス?
五月の小糠雨は頬にかかるように冷たい
そしてデフォルメの人獣は戦陣訓をたたき込まれた恐怖と義務で雄々しい
尻ぞろえだと、行頭がどこにあるかわからず読んでいて不安になる。うまくことばを追いつづけることができるだろうかと、どきどきする。そして、4行目が特に印象的なのだが、カタカナになにやら漢字熟語がぶつかりながら下へ下へとことばが落ちていく感じを、最後に「雄々しい」で受け止めるとき、そこにドラマがあるような気持ちにさせられる。不規則な切断と接続が、ドラマの緊張感のように思える。
ところが、これを行頭をそろえた形にすると、
明るくなった階段に
その上を飛ぶトビ? カラス?
五月の小糠雨は頬にかかるように冷たい
そしてデフォルメの人獣は戦陣訓をたたき込まれた恐怖と義務で雄々しい
4行目は、きざなカタカナと漢字熟語が頭で連結されてそこにあるだけという感じがしてしまう。「人獣」って、なんだろう。何の比喩だろう。そんなものは「現実」にはいない。架空の「ストーリー」のなかにしかいない。そんなものが「戦陣訓」だの「恐怖と義務」といっても「ストーリー」にすぎないと思ってしまう。
だから、(以下は、また行頭をそろえた形で引用してしまうが)
明るくなった階段は脹脛のような膨らみをもって
むしろ拒否してくれたあの頃の方がよかったのです
でもここが好きで
どのように醜く変形しようと
刺に満ちていようと
継母のように気まぐれであろうと
どこに行く当てもないので
来てしまう宿業
「明るくなった」から「でもここが好きで」までは、行頭をそろえても刺戟的でとても気持ちがいいのだが、それが「継母」から突然古くさい「ストーリー」にかわってしまい(昔の少女漫画みたい……)、さらに「宿業」という「ストーリー」としかいいようのない「時間」に吸い込まれてしまう。
「宿業」なんて、いったいいつの時代の「ストーリー」なんだろう。いつの時代の「流通言語」なのだろう、とそのことが気になってしまう。「世間(複数の人間)」がつくりあげる、「複数のためのストーリー(流通芝居)」は個人とは無縁。「世間」を都合よく動かすための装置にすぎない。怨念とか悲しみという「情(じょう)」を吸収し、権力の無能をごまかす装置だ--というと、まあ、言いすぎになるんだけれど、腹が立ってくると私はどこまでも暴走する。
「HORIZON BLUE」は、タイトルからして「ストーリー」を抱え込んでいるし、そのなかほど(また、引用は頭揃えでしてしまうのだが……)
何故出てきたのだろうあの人たちは
ロンドンだったか路上で清教徒の青年たちが
剃り上げた青い頭と粗衣で
苦行を自己主張したのは
何故聖堂に籠もっておれないかは
詩を書くことと同じだ
「何故出てきたのだろう」「何故聖堂に籠もっておれないか」ということばを変えただけの反復でストーリーを無理矢理動かすことにもなる。
詩の見かけの形をかえることで、ことばの「表情」を違ったものにみせるという「技法(手法?)」はそれはそれで「詩」なのかもしれないが、うーん、何か変だなあと思ってしまう。
でも、不思議。
最初は「この詩集はおもしろい」と書くつもりだったんだがなあ……。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。