谷川俊太郎の十篇(まえがき)
『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫)を手にして、私が最初にしたことは「父の死」を探すことだった。私は谷川の作品では「父の死」がいちばん好きだ。日本の詩の最高傑作だと思っている。
ところが、その「父の死」がない。
なぜなんだろう。
私は谷川俊太郎の詩が好きだが、私の「好き」という気持ちは、どこか間違っているんだろうか。
『自選集』を読み通してみると、ほかにも私の好きな詩がない。
なぜなんだ!
まるで恋人に振られたかのような衝撃を受けてしまった。動揺してしまった。
『自選集』の最後に山田馨の「解説」がある。そのなかに「この詩集を起点にして、谷川さんの広大な詩の海に乗り出していって欲しい。そして一人一人の方に、自分らしい、個性的で、贅沢な、一大アンソロジーを編んでいただきたいと願う。」と書かれている。よし、それでは、私は私なりに谷川の十篇を選んで、どんな具合に「好き」なのか、それを語ってみよう。谷川さんのほんとうの姿はこうなんですよ(こう見えるんですよ)と伝えたい。そうすることで「父の死」を選ばなかった谷川を、「父の死」振り向かせてみよう。まるでふられた恋人の敵討ち(?)みたいな感じだが、そんなふうに思った。私が「父の死」を書いたわけでもないし、私が「父の死」という作品でもないのだが……。
そして書くなら十篇。膨大な作品の中から十篇だけ選ぶ方が百篇選ぶよりも贅沢だ。誰も書かなかった谷川俊太郎を書くぞ、と決意した。「鑑賞」でも「批評」でもなく、「体験」として書いてみようと思った。
恋愛が「体験」なら、詩との出会いもまた「体験」だからだ。
だが、篇を選ぼうとして、困ってしまった。あれも好き、これも好き、と目移りしてしまう。何編か抜き出してリストをつくってみるが、リストに入りきれなかった作品が気になる。ほんとうにこれだけで谷川が語れるのか。あちこちで読んだ谷川作品への評価がちらちら動いたりする。あの作品が入っていないのはおかしい--と言われるだろう。何と言われようと関係ないはずなのに、気になってしまう。谷川も「私の代表作は別にある」と言うかもしれない。「世間の批評」に邪魔されて、初めて読んだときの、読んだ瞬間の気持ちにもどれない。
でも、書きたい。気取った(?)批評ではなく、「出会い」を書きたい。
予行演習をしてみよう。
「十篇」を覚前に『こころ』をテキストに、初めて詩を読んだ瞬間の気持ちを書く練習をしてみよう。詩との出会いは恋人との出会いに似ている。最初の印象がいちばん正しい。いや、すべての印象は最初にかえっていく。
そうやって書いたのが『谷川俊太郎の「こころ」を読む』(思潮社、06月末発行予定)のブログの文章。悪口のようなこともかなり書いてあるので、隠しておくと陰口みたいになっていやだなあ、そう思いブログを冊子にして谷川におくった。すると谷川が「おもしろい」と言ってくれた。本にする手筈を整えてくれた。びっくりしてしまった。うれしかったが、ここでまた雑念のようなものがはいり込んでしまった。
えっ、気に入ってくれている?
ここで、変なことを言ったら、嫌われてしまうかなあ。もっと変なことを書きたいんだがなあ。
昔なじみの池井昌樹には「おまえ、ここは谷川さんの気持ちを優先しろよ。嫌われるようなことはするなよ」と脅された。
あ、こんなことを考えていたら、「私の好きな十篇」とは違ったものになってしまいそう。
本が出るまでは、一休みということにしようかな。本が出てしまえば、すべてがリセットされる。『こころ』についての感想は、もう私のものではない。本は谷川の思いとも、私の思いとも無関係に動いていく。読者がかってに動かしていく。誰がなんと言おうと、私には何もいえない。
あ、これだね。
詩もまた作者とは関係がない。読んだ人間がかってに動かしていく。私の書きたいことは、簡単に言ってしまえば、こういうことなんだ。
谷川は「父の死」を書いた。私はその詩が好き。谷川の気持ちと私の気持ちは関係がない。私は谷川が「父の死」をどんな気持ちで書いたか、ということは気にしない。そこに書かれていることばが好き。そこに書かれていることばを自分勝手に解釈し、感想を言うだけだ。
私の感想が、谷川の気持ちと重ならなくたって関係ない。
読んだ瞬間から、詩は作者のものではなく、読者のものである。どんなふうに読もうと、それは読者のかって。「父の死」にかぎらず、そのほかの谷川の詩も、それは読んだ瞬間から「私のもの」。谷川の「真意(心情)」も世の中の「批評」も関係ない。
だいたい、作者の思い(思想?)どおりに読まないと「正しくない」、作者の思いを「正しく」読み取るのが「文学鑑賞」だとするなら、「文学」に駄作はなくなる。どんな作品にも作者の「正しい思い」はある。「正しい思い」を「正しく読む」とき、すべての作品は「正しい」ものになってしまう。
そうではなくて、どんなふうに間違っても、それでもなおかつ「おもしろい」のが文学というものだろう。こんな間違え方をしても、なお、ことばはそのまま楽しく動いている。まだこんな間違え方もできるぞ、と遊ぶのが文学だろう。
さて。
踏ん切りがついた。(出版の予告も出たし……。)
「谷川俊太郎の十篇」。私は「間違い」だらけの感想を書く。初めて読んだときの、わけのわからない興奮を、矛盾したまま書いていきたい。
(作品の感想はあすから随時連載します。)
『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫)を手にして、私が最初にしたことは「父の死」を探すことだった。私は谷川の作品では「父の死」がいちばん好きだ。日本の詩の最高傑作だと思っている。
ところが、その「父の死」がない。
なぜなんだろう。
私は谷川俊太郎の詩が好きだが、私の「好き」という気持ちは、どこか間違っているんだろうか。
『自選集』を読み通してみると、ほかにも私の好きな詩がない。
なぜなんだ!
まるで恋人に振られたかのような衝撃を受けてしまった。動揺してしまった。
『自選集』の最後に山田馨の「解説」がある。そのなかに「この詩集を起点にして、谷川さんの広大な詩の海に乗り出していって欲しい。そして一人一人の方に、自分らしい、個性的で、贅沢な、一大アンソロジーを編んでいただきたいと願う。」と書かれている。よし、それでは、私は私なりに谷川の十篇を選んで、どんな具合に「好き」なのか、それを語ってみよう。谷川さんのほんとうの姿はこうなんですよ(こう見えるんですよ)と伝えたい。そうすることで「父の死」を選ばなかった谷川を、「父の死」振り向かせてみよう。まるでふられた恋人の敵討ち(?)みたいな感じだが、そんなふうに思った。私が「父の死」を書いたわけでもないし、私が「父の死」という作品でもないのだが……。
そして書くなら十篇。膨大な作品の中から十篇だけ選ぶ方が百篇選ぶよりも贅沢だ。誰も書かなかった谷川俊太郎を書くぞ、と決意した。「鑑賞」でも「批評」でもなく、「体験」として書いてみようと思った。
恋愛が「体験」なら、詩との出会いもまた「体験」だからだ。
だが、篇を選ぼうとして、困ってしまった。あれも好き、これも好き、と目移りしてしまう。何編か抜き出してリストをつくってみるが、リストに入りきれなかった作品が気になる。ほんとうにこれだけで谷川が語れるのか。あちこちで読んだ谷川作品への評価がちらちら動いたりする。あの作品が入っていないのはおかしい--と言われるだろう。何と言われようと関係ないはずなのに、気になってしまう。谷川も「私の代表作は別にある」と言うかもしれない。「世間の批評」に邪魔されて、初めて読んだときの、読んだ瞬間の気持ちにもどれない。
でも、書きたい。気取った(?)批評ではなく、「出会い」を書きたい。
予行演習をしてみよう。
「十篇」を覚前に『こころ』をテキストに、初めて詩を読んだ瞬間の気持ちを書く練習をしてみよう。詩との出会いは恋人との出会いに似ている。最初の印象がいちばん正しい。いや、すべての印象は最初にかえっていく。
そうやって書いたのが『谷川俊太郎の「こころ」を読む』(思潮社、06月末発行予定)のブログの文章。悪口のようなこともかなり書いてあるので、隠しておくと陰口みたいになっていやだなあ、そう思いブログを冊子にして谷川におくった。すると谷川が「おもしろい」と言ってくれた。本にする手筈を整えてくれた。びっくりしてしまった。うれしかったが、ここでまた雑念のようなものがはいり込んでしまった。
えっ、気に入ってくれている?
ここで、変なことを言ったら、嫌われてしまうかなあ。もっと変なことを書きたいんだがなあ。
昔なじみの池井昌樹には「おまえ、ここは谷川さんの気持ちを優先しろよ。嫌われるようなことはするなよ」と脅された。
あ、こんなことを考えていたら、「私の好きな十篇」とは違ったものになってしまいそう。
本が出るまでは、一休みということにしようかな。本が出てしまえば、すべてがリセットされる。『こころ』についての感想は、もう私のものではない。本は谷川の思いとも、私の思いとも無関係に動いていく。読者がかってに動かしていく。誰がなんと言おうと、私には何もいえない。
あ、これだね。
詩もまた作者とは関係がない。読んだ人間がかってに動かしていく。私の書きたいことは、簡単に言ってしまえば、こういうことなんだ。
谷川は「父の死」を書いた。私はその詩が好き。谷川の気持ちと私の気持ちは関係がない。私は谷川が「父の死」をどんな気持ちで書いたか、ということは気にしない。そこに書かれていることばが好き。そこに書かれていることばを自分勝手に解釈し、感想を言うだけだ。
私の感想が、谷川の気持ちと重ならなくたって関係ない。
読んだ瞬間から、詩は作者のものではなく、読者のものである。どんなふうに読もうと、それは読者のかって。「父の死」にかぎらず、そのほかの谷川の詩も、それは読んだ瞬間から「私のもの」。谷川の「真意(心情)」も世の中の「批評」も関係ない。
だいたい、作者の思い(思想?)どおりに読まないと「正しくない」、作者の思いを「正しく」読み取るのが「文学鑑賞」だとするなら、「文学」に駄作はなくなる。どんな作品にも作者の「正しい思い」はある。「正しい思い」を「正しく読む」とき、すべての作品は「正しい」ものになってしまう。
そうではなくて、どんなふうに間違っても、それでもなおかつ「おもしろい」のが文学というものだろう。こんな間違え方をしても、なお、ことばはそのまま楽しく動いている。まだこんな間違え方もできるぞ、と遊ぶのが文学だろう。
さて。
踏ん切りがついた。(出版の予告も出たし……。)
「谷川俊太郎の十篇」。私は「間違い」だらけの感想を書く。初めて読んだときの、わけのわからない興奮を、矛盾したまま書いていきたい。
(作品の感想はあすから随時連載します。)
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