人はだれでも、自分の求めていることばを探して本を読む。その求めていることば、探していることばとは、直観としてつかんでいるが、まだことばになっていないものである。それはたとえて言えば、昆虫の新種や、未発見の遺跡のようなものかもしれない。あるはず、と直観は言っている。
和辻哲郎全集8。「風土」にも、そういうものがある。あ、このことばは和辻が探していたものに違いないと感じさせることばが。
たとえば、ヘルデルの文章の中から引き出している「生ける有機力」ということば。それを引き継いで、和辻は、こう言いなおしている。
我々自身は知らずとも、我々の肉体の内にそれは溌剌と生きている。
「知らず」は意識できない、ということだろう。
だから、こうつづける。
理性の能力というごときものは、この肉体を道具として働いてはいるが、しかし肉体を十分に知る力さえなく、いわんや肉体を作ったものではない。
これは、逆に言えば、肉体は知性をつくる。あらゆるものをつくる、ということだ。さらに言いなおしている。
精神的思惟といえども肉体の組織や健康に依存するものであるから、我々の心情に起こるあらゆる欲望や衝動が動物的な暖かみと離し難いものであることは当然のことであろう。これらは何人も疑うことのできぬ自然の事実なのである。
「自然の事実」には傍点が打ってある。「生ける有機力」から「自然の事実」への「飛躍」。あるいは「飛翔」。「有機力」の「力」は、エネルギーということだろう。それは、不定形。それ自身は、ただ使い果たされ、それを使い果たすときに何かが起きる。何かが生まれる。何かを生み出す。つまり「つくる」。
そしてそれは「動物的な暖かみと離し難い」。かならず「動物的な暖かみ」を持っている。「動物的」は「人間的/肉体的」と言い換えることができる。この「暖かみ」には、和辻の、とても重要な「人柄」のようなものをあらわしている。
「生ける有機体」の存在の仕方、風土や生活の仕方は、主体的な人間存在の表現であるというようなことも和辻は書いているが、その「主体的な人間存在の表現」には、そのひと独特の「人道の観念」を明示する。「人道」ということばのなかにある「道」。和辻の父が、和辻に向かってお前の道はどうなっているのか、と「古寺巡礼」のなかで問うているが、その「道」である。和辻はここから倫理へ、つまり歴史哲学へと入っていく。
人間がつくってきた「道」が「歴史」のなかにある。「哲学」のなかにある。
「古寺巡礼」のなかには、いろいろなことばが書かれている。そして、その主力は「道」ではなく、古い美術への鑑賞なのだが、私はなぜか、あの「道」ということばが忘れらない。そして、その「道」につながることばを探して、和辻を読んでいるのだと思う。