和辻哲郎全集8「イタリア古寺巡礼」。ミケランジェロとギリシャ彫刻の違いについて、303ページに、おもしろい表現がある。
この相違は鑿を使う人の態度にもとづくのかもしれない。
和辻は、技術、技巧とは言わずに「態度」と言っている。これは、人間とどうやって向き合うか、人間の(肉体の)何を評価するかということ、「道」につながることばだろう。
ミケランジェロ(あるいはローマの彫刻)が、表面的(外面的)であるのに対し、ギリシャの彫刻には「中から盛り上がってくる」感じがあると言い、「中からもり出してくるものをつかむ」とも書いている。
「中から」は「肉体の中から」である。「中にあるもの」とは「生きる有機力」だろう。それを「つかむ」という態度(向き合い方/生き方/人間の評価の仕方)が違うと和辻はとらえている。
「知識(技巧/技術)」と言わずに、あくまで「人間全体」の表現(態度)、つまり「目に見えるもの」として和辻は把握している。
もちろん態度の「奥」には「意識」があるだろうが、それを「意識/技術」とはいわずに、目に見える「態度」ということばでとらえるところに、和辻の「直観」がある。存在するものは、まず、「目に見える」、あるいは「耳で聞き取れる」「手で触れる」「鼻で匂いを嗅ぐことができる」「舌で味わうことができる」。
存在するのは「肉体」である。「意識」の本意はつかみにくいときがあるが、「肉体」の本意は、だれもが見分ける(識別する)ことができる。どんな子供でも、母親が自分を愛してくれているか、いま喜んでいるか、叱っている、そのときの「意識の論理構造/意識の運動」をことばで言い表すことはできなくても、それを感じ取り、「態度(肉体)」で反応することができる。
ここで「態度」ということばをつかっていることに対して、私は、やっぱり、はっと驚き、同時に安心するのである。人間は「肉体」であり、「肉体の行動」が人間のすべてである。
逆に読む。意識的に「誤読する」、そこから「飛躍」が生まれる。私は、こういうことも和辻から学んでいるかもしれない。和辻から学んだという意識はなかったが、こういう「無意識」こそ、「影響を受ける」ということなのだと思う。
和辻は、どんな風に「誤読」するか。つまり「意識的に読み替える」ことで、ことばを「飛躍させる」。
システィナ礼拝堂のミケランジェロの壁画、天井画について、こう書いている。それは本来、礼拝堂を装飾するはずのものである。しかし、
この堂自身が壁画や天井画のためにあるのであって、絵がお堂のためにあるのではない(略)。その位置を逆転しているのである。(316ページ)
「通説」を逆転させている(これも、私にとっては「誤読」ということである)、そうすることで和辻は自分の言いたいことへと「飛躍」する。
その上で、この考え(ことば)を次のように発展させている。さらに「飛躍」させている。
堂がおのれをむなしゅうして絵に仕えている結果、絵は完全にその効能を発揮して堂を飾り、堂の装飾の役目を果たしていることになる。
これは和辻が最初に書いたこと(最初の引用部分)を、さらに和辻自身で「誤読」する形でことばを動かしたものである。つまり、ここには一種の「矛盾」があるのだが、それを止揚するかたちで、ことばは、こう動く。
両者が互いに生かせ合っているのである。
「互いに生かせ合う」というのが「道」だろう。人と人の出会いのように、礼拝堂と絵が出会っている。その出会いにミケランジェロが立ち会っている。ミケランジェロの「肉体」のなかにある「生ける有機力」があふれ出て、礼拝堂(建物)と絵に分裂し、さらに統合されている。そういうドラマチックな展開があるのだが、こういう「飛躍(止揚)」の過程で「おのれをむなしゅうする」とか「仕える」とか、「互いを生かせ合う」という、私の両親で聞いて納得できることばをつかっているのが、私はとても好きである。
和辻のことばの運動がたどりついた頂点としての表現も好きだが、その過程でつかわれる「態度」のように、誰もが知っていることばのつかい方が、私にはとても納得が行く。