神尾和寿『地上のメニュー』(砂子屋書房、2010年02月20日発行)
神尾和寿『地上のメニュー』に驚いた。いや、正確に言うと、冒頭の「たんぼのことば」に頭を殴られたような衝撃を受けた。えっ、神尾和寿って、こういう詩人だった? めったにしないことだが、思わず5回ほど、読み返してしまった。私の知っている神尾とはまったく別の神尾がいる。私はいままで神尾を読んでいたのだろうか、と不思議な気持ちになった。
そして、私は、まだほかの詩を読んでいないのだが、ともかくこの詩に夢中になってしまった。
読むと、目の前に田んぼが広がってくる。夏の、緑の盛んな田んぼ。見渡すかぎりの緑。風が吹くと葉裏が光る。ゆらゆらと、風の道をつくることもある。そこに電柱が立っている。
電柱は道に沿って立っていることが多いが、田舎へ行くと、曲がりくねった道に沿って電柱を立てるより、田んぼを突ききってまっすぐに電柱を並べる方が経済的なのだ。そういう田舎の風景である。そういう電柱、電線は、まだ電気がはじめて集落に(家庭に)やってきたときの記憶を内部に抱え込んでいる。
「電気は明るいなあ、電気は便利だなあ」
そういう声を遠くで聞きながら、電柱は(電線は)誇らしげである。だから、鳥なんか寄せつけない。電柱の誇りが、「おれを、そんじょそこらの木といっしょにするな」と見栄を切らせている。
もうそういう時代ではないから、まあ、電柱はそういう声を内部に秘めていることになる。
ここに書かれているのは、現実であり、過去であり、記憶であり、歴史なのだ。といっても、それはけっして教科書に書かれるような歴史ではないし、また、過去でもない。ただ、そこに暮らしたひとの内部にだけ存在する過去であり、記憶であり、歴史である。
電柱、電線の、見かけと内部(?)の違いのように、あらゆるものには見かけ(外部)と内部がある。建前と本音もある。田舎の暮らしにも、そういう二面性がある。それは、田舎だけではなく、あらゆる人間の暮らしにあることだ。
「ゆるく/わたっている」
これは電柱と電柱のあいだに張り渡された電線の描写である。すこしたわんで、その線がぴんと張り詰めたものではないことを、この2行は語っているが、この「ゆるく」のなかに、神尾の思想が凝縮している。
電線の内部で電気が忙しく走り回れば回るほど、電線は「ゆるく」なければならない。忙しさ、緊張をつつむ「ゆるさ」。それがあって、世界は成り立っている。神尾は、緊張に満ちた世界を「ゆるさ」で包み、そこに静かな笑いを引き起こす。
--と書いていけば、それはそのまま、私の知っている神尾につながるのだが、あ、こんなふうに自然にそのことを実感したことがなかった。神尾は彼が向き合っているものを「ゆるく」包みこみ、その「ゆるさ」のなかで他者を引き受けている、とこんなに自然に感じたことはなかった。
田舎には、田舎から飛び出してどこかへいってしまった人間がいる。いまも、大量にいる。いや、いま、田舎は、田舎を飛び出して行ったひとのために、電気がはじめてその村にきたときのことを知っている人しか残されていない、という状況に近い。
電柱と、電線のなかには、とおい「栄光」の記憶があるだけだ。
あの「栄光」から1万年?
この誇張のなかにある悲しみ。寂しさ。けれど、それを「敵には いまだ巡り会っていないの/かしら」とつつみなおす温かさ。
それは、日本の風景のやさしさ、風土のやさしさかもしれない。「土地」にねづいて生きるやさしさかもしれない。電柱のように、そこに立ったまま、どこへも動いていかない暮らしの(生きかたの)やさしさかもしれない。
神尾は、そういう風景を生きている。
神尾和寿『地上のメニュー』に驚いた。いや、正確に言うと、冒頭の「たんぼのことば」に頭を殴られたような衝撃を受けた。えっ、神尾和寿って、こういう詩人だった? めったにしないことだが、思わず5回ほど、読み返してしまった。私の知っている神尾とはまったく別の神尾がいる。私はいままで神尾を読んでいたのだろうか、と不思議な気持ちになった。
そして、私は、まだほかの詩を読んでいないのだが、ともかくこの詩に夢中になってしまった。
ふかい緑の田圃に 見え隠れして
はるか向こうに
電柱が 一本
こちら側にも もう一本が立っていて
鳥も寄せつけずに
先端が 潤んだ空に突き刺さりながら
一方で 電線はといえば非常にゆるく
わたっている
電線のなかでは 電気がいそがしく走り回り
その電気とは かつては言葉だった
とのこと
命令やうわさ話や絶大なる賞讃、同じ賞讃のなかでも本音と建前 それから
呪いと祝福 ある時には
決闘を申し込む
言葉も とどく
受けてやろうじゃないか
斧を握り上げて とろけるような団欒から抜け出た
わが弟 は
一万年たった 今も帰らない
敵は強かったのか、命を取るまで残酷だったのか
それとも
敵には いまだ巡り会っていないの
かしら
読むと、目の前に田んぼが広がってくる。夏の、緑の盛んな田んぼ。見渡すかぎりの緑。風が吹くと葉裏が光る。ゆらゆらと、風の道をつくることもある。そこに電柱が立っている。
電柱は道に沿って立っていることが多いが、田舎へ行くと、曲がりくねった道に沿って電柱を立てるより、田んぼを突ききってまっすぐに電柱を並べる方が経済的なのだ。そういう田舎の風景である。そういう電柱、電線は、まだ電気がはじめて集落に(家庭に)やってきたときの記憶を内部に抱え込んでいる。
「電気は明るいなあ、電気は便利だなあ」
そういう声を遠くで聞きながら、電柱は(電線は)誇らしげである。だから、鳥なんか寄せつけない。電柱の誇りが、「おれを、そんじょそこらの木といっしょにするな」と見栄を切らせている。
もうそういう時代ではないから、まあ、電柱はそういう声を内部に秘めていることになる。
ここに書かれているのは、現実であり、過去であり、記憶であり、歴史なのだ。といっても、それはけっして教科書に書かれるような歴史ではないし、また、過去でもない。ただ、そこに暮らしたひとの内部にだけ存在する過去であり、記憶であり、歴史である。
一方で 電線はといえば非常にゆるく
わたっている
電線のなかでは 電気がいそがしく走り回り
電柱、電線の、見かけと内部(?)の違いのように、あらゆるものには見かけ(外部)と内部がある。建前と本音もある。田舎の暮らしにも、そういう二面性がある。それは、田舎だけではなく、あらゆる人間の暮らしにあることだ。
「ゆるく/わたっている」
これは電柱と電柱のあいだに張り渡された電線の描写である。すこしたわんで、その線がぴんと張り詰めたものではないことを、この2行は語っているが、この「ゆるく」のなかに、神尾の思想が凝縮している。
電線の内部で電気が忙しく走り回れば回るほど、電線は「ゆるく」なければならない。忙しさ、緊張をつつむ「ゆるさ」。それがあって、世界は成り立っている。神尾は、緊張に満ちた世界を「ゆるさ」で包み、そこに静かな笑いを引き起こす。
--と書いていけば、それはそのまま、私の知っている神尾につながるのだが、あ、こんなふうに自然にそのことを実感したことがなかった。神尾は彼が向き合っているものを「ゆるく」包みこみ、その「ゆるさ」のなかで他者を引き受けている、とこんなに自然に感じたことはなかった。
田舎には、田舎から飛び出してどこかへいってしまった人間がいる。いまも、大量にいる。いや、いま、田舎は、田舎を飛び出して行ったひとのために、電気がはじめてその村にきたときのことを知っている人しか残されていない、という状況に近い。
電柱と、電線のなかには、とおい「栄光」の記憶があるだけだ。
あの「栄光」から1万年?
一万年たった 今も帰らない
敵は強かったのか、命を取るまで残酷だったのか
それとも
敵には いまだ巡り会っていないの
かしら
この誇張のなかにある悲しみ。寂しさ。けれど、それを「敵には いまだ巡り会っていないの/かしら」とつつみなおす温かさ。
それは、日本の風景のやさしさ、風土のやさしさかもしれない。「土地」にねづいて生きるやさしさかもしれない。電柱のように、そこに立ったまま、どこへも動いていかない暮らしの(生きかたの)やさしさかもしれない。
神尾は、そういう風景を生きている。
七福神通り―歴史上の人物神尾 和寿思潮社このアイテムの詳細を見る |