柏木麻里「蝶と空」、吉田加南子「しずくのために」(「径」4、2009年12月10日発行)
本を読むとき私は本の余白にメモを取る。だから私の読んだ本は、古本屋では売りものにならない。書き込みで汚れているからである。
たとえば、私は「径」4の2ページ目、柏木麻里の「蝶と空」という作品の、「2. 」が印刷されているページに、
と、書いている。これは「2. 」「3. 」のためのメモである。
柏木の作品は、余白がたくさんある。そして、それをネット上で正確に再現することはできないのだが、それなりに引用してみると、次のようになる。
ここに書かれていることばを「論理的」に分析することは、私にはできない。ことばの「意味」(論理)を正確に追うことはできない。私は「論理」を追うのではなく、1行1行にあらわれてくることばを、「意味」から切り離して、「もの」として見ている。
私は「読んで」いるのではない。「見て」いるのだ。ことばを。
あるいは、ことばが空白にかこまれて、ぽつんと存在している感じを。
むりやり、ことばをつないで行くことはできる。「論理」をつくろうとすれば、たぶん、つくれる。
蝶がからだを動かすと空があたたかい花の匂いで虹になる--というのは、蝶には花から花へと渡ってきた記憶がある。そして、その記憶は蝶のからだににおいとしてしみついている。蝶が翅をふるわせて舞うとき、その翅にのこっている匂いが空中に飛び散る。そのひとつひとつの匂いは、匂いであると同時に、その花の色を思い起こさせる。記憶のなかに花の色が広がる。それが蝶の飛ぶ軌跡を追いかけて、虹になる。その虹の色は「七色」ではなく、蝶がたどってきた花の色だ……。
あ、でも、こんなふうに「空白」を埋めてしまってはいけないのだ。逆に、そういう「論理」を思いついたとしても、それは捨て去ってしまわなければならない。
あるいは、こういうべきか。
この余白には、柏木がことばを動かすときに動いていた「論理」の運動が捨てられている。その捨てられたものを拾い集めるのではなく、柏木の余白の力を借りて、私たちも「論理」を捨てるとき、余白に守られて、ことばがあたらしく生まれ変わる。いのちそのものとして動いていくのだと。
それは、どこへ動いていくのか?
わからない。わからないから、詩なのである。
そして、それは動いていく、というより、柏木のことばをつかって繰り返せば、それは「連れだされて」行くのだ。ことばの「意味」の檻から、ことばの「意味」のない(つまり、流通言語の意味とはちがった)世界へ、まっさらな「空白」へ。
ことばをつつむまっさらな空白--その空白と拮抗することば。
柏木のことばは、そういう世界を生きようとしている。
私は、そう書きながら、また、それとは違うことも感じている。特に「2. 」の部分に。
「連れだす」「蓮」その文字のなかにある「響きあい」に、何か、いままでの柏木とはちがったものがあるように感じている。
「蓮」(蓮の花)は、私の印象では、深い泥のなかから何かの力によって連れ出され、水面に出て、そこで開くものである。この「蓮」に対して、柏木は「どうしてゆくのか」と問いかけている。ある力に誘われたからといって、どうしてそれにしたがって行くのか。
誘う力と、誘われるもののなかには、何かつながりがある。
「連」と「蓮」の文字--その文字のなかにあるような、不思議なものが存在する。余白だけではなく、柏木は、ふとそういうものを見てしまっている。
そんなことも感じた。
そして、その印象が、まわりにある「余白」に不思議な色を与えているようにも感じる。
感覚的なことばばかり並べてしまったが、そんなことを感じた。
*
吉田加南子「しずくのために」は柏木の作品と似たところがある。吉田の方が詩人として先輩であるから、柏木の詩は、どこかで吉田の影響を受けているといった方がいいのかもしれないけれど。
吉田と柏木の作品の違いは、「余白」の量である。吉田の方が少ない。そして、吉田のことばは、「余白」のない部分では「論理」のことばを持っている。
「って」「って」「って」。これは「というのは」という「意味」になる。そこでは、ことばがことばによって説明されている。「説明ですよ」という「おことわり」が「って」なのである。そして、その「説明」を「こと」で受け止める。
最後の部分は、
と言い換えることもできる。それは逆に言えば、それぞれの「って」をとると、「影がふくらむ//身ごもります」というスタイルのことばになるということでもある。
吉田も、柏木も、「余白」によって「論理」を消していることがわかる。
吉田の方が「消している」、柏木の方は「捨てている」というくらいの違いを、私は感じているのだけれど、こういう感覚的なことは説明するのがむずかしい。吉田の空白はもりあがっている。山の形をしている。それに対して柏木の空白は深淵の形をしている、と言えばいいだろうか。
本を読むとき私は本の余白にメモを取る。だから私の読んだ本は、古本屋では売りものにならない。書き込みで汚れているからである。
たとえば、私は「径」4の2ページ目、柏木麻里の「蝶と空」という作品の、「2. 」が印刷されているページに、
感覚の論理。感覚が論理になるための通過領域としての空白。余分なことばを削ぎ落とすための「場」。
ことばではない。空白こそを読まねばならない。
と、書いている。これは「2. 」「3. 」のためのメモである。
柏木の作品は、余白がたくさんある。そして、それをネット上で正確に再現することはできないのだが、それなりに引用してみると、次のようになる。
2.
なにもないやわらかさから連れだされて
どうしてゆくのか蓮は
3.
蝶が からだをうごかすと
空は
あたたかい花の匂いで
虹になってしまう
ここに書かれていることばを「論理的」に分析することは、私にはできない。ことばの「意味」(論理)を正確に追うことはできない。私は「論理」を追うのではなく、1行1行にあらわれてくることばを、「意味」から切り離して、「もの」として見ている。
私は「読んで」いるのではない。「見て」いるのだ。ことばを。
あるいは、ことばが空白にかこまれて、ぽつんと存在している感じを。
むりやり、ことばをつないで行くことはできる。「論理」をつくろうとすれば、たぶん、つくれる。
蝶がからだを動かすと空があたたかい花の匂いで虹になる--というのは、蝶には花から花へと渡ってきた記憶がある。そして、その記憶は蝶のからだににおいとしてしみついている。蝶が翅をふるわせて舞うとき、その翅にのこっている匂いが空中に飛び散る。そのひとつひとつの匂いは、匂いであると同時に、その花の色を思い起こさせる。記憶のなかに花の色が広がる。それが蝶の飛ぶ軌跡を追いかけて、虹になる。その虹の色は「七色」ではなく、蝶がたどってきた花の色だ……。
あ、でも、こんなふうに「空白」を埋めてしまってはいけないのだ。逆に、そういう「論理」を思いついたとしても、それは捨て去ってしまわなければならない。
あるいは、こういうべきか。
この余白には、柏木がことばを動かすときに動いていた「論理」の運動が捨てられている。その捨てられたものを拾い集めるのではなく、柏木の余白の力を借りて、私たちも「論理」を捨てるとき、余白に守られて、ことばがあたらしく生まれ変わる。いのちそのものとして動いていくのだと。
それは、どこへ動いていくのか?
わからない。わからないから、詩なのである。
そして、それは動いていく、というより、柏木のことばをつかって繰り返せば、それは「連れだされて」行くのだ。ことばの「意味」の檻から、ことばの「意味」のない(つまり、流通言語の意味とはちがった)世界へ、まっさらな「空白」へ。
ことばをつつむまっさらな空白--その空白と拮抗することば。
柏木のことばは、そういう世界を生きようとしている。
私は、そう書きながら、また、それとは違うことも感じている。特に「2. 」の部分に。
「連れだす」「蓮」その文字のなかにある「響きあい」に、何か、いままでの柏木とはちがったものがあるように感じている。
「蓮」(蓮の花)は、私の印象では、深い泥のなかから何かの力によって連れ出され、水面に出て、そこで開くものである。この「蓮」に対して、柏木は「どうしてゆくのか」と問いかけている。ある力に誘われたからといって、どうしてそれにしたがって行くのか。
誘う力と、誘われるもののなかには、何かつながりがある。
「連」と「蓮」の文字--その文字のなかにあるような、不思議なものが存在する。余白だけではなく、柏木は、ふとそういうものを見てしまっている。
そんなことも感じた。
そして、その印象が、まわりにある「余白」に不思議な色を与えているようにも感じる。
感覚的なことばばかり並べてしまったが、そんなことを感じた。
*
吉田加南子「しずくのために」は柏木の作品と似たところがある。吉田の方が詩人として先輩であるから、柏木の詩は、どこかで吉田の影響を受けているといった方がいいのかもしれないけれど。
吉田と柏木の作品の違いは、「余白」の量である。吉田の方が少ない。そして、吉田のことばは、「余白」のない部分では「論理」のことばを持っている。
映す
って
映しているもののところにいっている
って
ことね
しずくの底
って
しずくのとけたあとの空
影がふくらむ
身ごもります
「って」「って」「って」。これは「というのは」という「意味」になる。そこでは、ことばがことばによって説明されている。「説明ですよ」という「おことわり」が「って」なのである。そして、その「説明」を「こと」で受け止める。
最後の部分は、
影がふくらむ
って
身ごもる
って
ことね
と言い換えることもできる。それは逆に言えば、それぞれの「って」をとると、「影がふくらむ//身ごもります」というスタイルのことばになるということでもある。
吉田も、柏木も、「余白」によって「論理」を消していることがわかる。
吉田の方が「消している」、柏木の方は「捨てている」というくらいの違いを、私は感じているのだけれど、こういう感覚的なことは説明するのがむずかしい。吉田の空白はもりあがっている。山の形をしている。それに対して柏木の空白は深淵の形をしている、と言えばいいだろうか。
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